放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(松田尚樹先生)

松田尚樹先生へのインタビュー 3/6

長崎大学のホールボディカウンター

樋口: やはりこちらにいらっしゃっている間にRIに対する変化は感じられますか?

松田: ホールボディカウンターは1975年ぐらいに設置されていまして、それで理由は被曝者の方の内部被曝の調査なんですね。当時のデータありますけど、まだセシウム137で内部被曝されている方がおられたんですね。この近くが爆心地で、そのあと風で流されて雨が降ったんですね。それで西山地区でフォールアウトがあって、それでそのあたりは今はもう大きな住宅地なんですけど、当時は畑と民家しか無くて、70年ぐらいまではまだ今みたいな住宅地になっていなくて、当時1970年ぐらいはまだスーパーマーケットとかはなくて、近くのものを食べる時代だったんですよ。なのでこの辺の方はその辺のものを食べてらっしゃったんです。

小波: その当時、どの程度土壌にあったんですか?

松田: それはいくつか論文があります。正確な量はここでは言えないですけど、まあ十分に検出限界を超える値でしたね。そしてその西山貯水池というのはもちろん貯水池なので泥がある。だから泥を深く掘っていくと、まず最初に出てくるのはチェルノブイリの時のセシウムですね。それからその次に出てくるのが、大気核実験をしていた頃のセシウムですね。さらに深く行くと原爆の時のプルトニウムが出てくると。その貯水池の周りもだいたいセシウムがありますね。泥が一年に何センチか積もって年輪みたいにね。当時はそんなんで、そのあと80年ぐらいになったらもうほとんど内部放射能が出てこなくなって、ちょうどその住宅地ができて流通がしっかりし出した頃と合致するらしいですね。

坂東: 今放射線の影響は神経質なくらい騒いでいますけど、当時は、これでもう安全ですよと言ったらみんな信用したんですか?

松田: それはわからないです。そのころは私はそこに居なかったので。どういうふうにその結果が開示されたのかというのはわからないですね。

坂東: まあそこは住宅地じゃなかったわけですよね。それは何かルールでもあって、みなさんあまり気にしなかったんですかね?

松田: 気にしなかったというより知らされていなかったのかもしれませんね。

小波: ホールボディカウンターがあったわけですよね。その出てきたデータというのはどのように使われたんですか?

松田: 70年代にまだ放射能が出ているというぼくのデータ、これはいくつか日本語ですが論文になっています。広島と長崎は原子爆弾後障害研究会というのがありまして、年に1回ずつ交互にこういう関係のデータを出し合う機会があるんですね。こういう所で出していましたね。

樋口: そもそもはそういう目的でホールボディカウンターがあったと。

松田: そうです。その次がチェルノブイリです。それでチェルノブイリは甲状腺癌が増えてきたというインシデントを捕まえて論文にしたのが長崎大のグループなんですね。その後ずっと継続的にフォローにいったと言うときに、国際交流なのであちらからも来られて、そのときに測ったら「うわ出てるやんか」となって、それで交流のついでに測定はしていました。もちろんメインは笹川財団のお金でホールボディカウンター車を作ってそれを向こうに持って行って測ったのがメインだったんです。1986年ですね。

中尾: 先生自身はチェルノブイリとか行かれたんですか?

松田: ぼくは行ってないです。そのころはまだこっちにいました。


長崎大学に現在設置されている精密型ホールボディ―カウンター

角山: 先生がいらっしゃったころは逆に言うともうホールボディカウンターの利用が進んでいたということですね。

松田: さきほどご覧頂いたと思うんですけど、8インチのNaIが上と下にドドンとあるんですけど、NaIだから経年変化しますよね、だから当時はセシウムでもピークが二つ出るはずが一つになったりとか、駆動部がガタガタで落ちてきそうだったりとか。でもお金がないので、お荷物的なところもあってあまり先は良くなかったんですけど、ところが麻生政権の最後のばらまき補正予算で、教育用に金をばらまくというので何かないのかというので、ホールボディカウンターを書いて出したらそれが通って、それで新しくしたんです。大体8,000万円ぐらい。それが福島の事故の半年ぐらい前です。その後あの事故があったので、フル稼働したんですけどね。あの麻生のばらまきが無かったら良い性能で評価できなかったんです。1,100人ぐらい測ったんですけど、検出限界が35ベクレルでもうきれいなしっかりした貴重なデータがとれました。

角山: 先生が行かれたのはリクエストがあって現地に行ったんですか?

松田: 研究被曝医療の体制がもともとあって、昔は東は放医研、西は広島大学が三次医療機関として働くことになっていたんですけど、まあ両方行ったんですけどぜんぜん太刀打ちならないということで、うちは二次被曝医療機関だったんですけど、出てこいということで5人ぐらいで行ったんです。でも僕が行ってる間に三菱の会社の人が15日か16日に帰ってこられたんです、すぐに。やっぱりよくわかったのは、特に初期はものすごくピークが出てくるので混ざってしまって分別できないんです。NaIだとね。なのでゲルマ(Ge半導体検出器)がいるなということになってその後、追加で検出器を入れたんです。

角山: 今先生のところは分子生物学的なところもやっているんですけども、ラボとしてはどういう研究がテーマなんですか?いらっしゃるスタッフも粒ぞろいで端から見るとすごく幅広いなというふうに思うのですが。

樋口: やはり電離放射線のようなものにどこか関わりがあることをやっておられるんですか?

松田: うちは共有施設でもあり原研の中の一つの部門でもあるのでお仕事が多いんですよ。研究以外に。例えば昨日一昨日は高校生が来て研修をしたり、それから災害医療の枠組みで線量評価部門というのがあって,九州なら鹿児島大学病院とか九州大学病院とか長崎医療センターとかに行って派遣チームの研修をしなければいけなくて、それもわざわざ行ってやっているし、あと中核人材研修とか逆に来てもらってやったり、そういう放射線医療関係の仕事が年間通して10%ぐらいは占めていますね。それとまあ学内・学外の教育があり、それから今の線量評価とかね。そういうお仕事が3割ぐらいベースラインとして、あと教育と雑用で、それは他の助教も若い子もそうなんです。だから他のときは好きなことをやってもらっています。これもお仕事みたいなものですけど、 災害放射線被曝医療共同専攻というのがあって留学生が来て、けっこううちで見るんですよね。カザフスタンとか今居るのはパキスタンとか、ミャンマーもいますね。

中尾: そういう方々はどういうバックグラウンドなんですか?

松田: 医者がいて、あとは行政的な研究者、それから新卒の医学部を出ましたと言うような学生とかですね。

樋口: やはり研究テーマを与えてというような流れなんですか?

松田: そのへんは全部が全部実験をやっているわけでも無くて、川内村とか富岡町とかでフィールドワークみたいなのもありますね。


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