放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(永宮先生)

永宮正治允先生へのインタビュー 6/6

放射線研究とがん治療

b:放射線の粒子線治療は、アメリカでジョン・ローレンスらが始めたのですけど、ガン研究と今のものとは少し違いますよね。どっちかというとガンの治療と言うよりは、なんかヨーロッパではガンの治療がわりにマリー・キュリーなどが率いてがん治療というので勢いよくやりだしたんですけど、アメリカでも、がんは切るというのと、毒をもって毒を制すと言うように、この毒とこの毒を混ぜたら快癒したとか、そんな話ばっかりずっとやっていますよね。それに加えて、放射線治療という三本立てで進んできた。
ミクロなDNAの構造から解き明かすがんの研究は、元をたどればウイルヒョウの細胞説から始まるのですが、実際に遺伝子の段階での解明が始まったのはここ2-30年ですね。
ところで、バークレーでやっているのはどっちかというと、治療というより、体の中を見るためのトレーサーというか、内部を見る眼鏡というか、そっちの方が多かったんですか?

n:始まりはトレーサーです。治療と言っても全部治るわけではないので、今のように治療専門用加速器があったわけではなくて、やっぱり基礎的な科学をどう進めるかというのが最初の主眼だったと思うんですね。だから、人間の治療もありますけど、それ以外の基本的な人間に関連した機能の研究が主眼でしたね。どこかにそれに関する分厚い報告書があるはずなので、あったらまたお見せします。

b:この本によると、そもそも、ガンというのは、昔はメジャーな病気のターゲットではなかったのですね。他の病気で死ぬ方が多かったからでしょうけど。それで近代になって、他の病気が克服されて、結局がんが残っているという感じになっていますよね。
がんに関しては、何か得体の知れない物だという感じがずっとあったようですね。それでアメリカでもがんをもう少ししっかり研究しなければいけないのではないかという話が出て、国立がんセンター(NCI)というのができた時期があったんですね。ところがそれができた後に、日本の真珠湾攻撃があって、それどころではなくなってお金が全部そっちに行ってしまったそうですね。それでそこは結局つぶれてしまったと。LBLができたのは第二次世界大戦の後ですか?

n:研究所の発足は戦前と聞いていますが、1954年頃に初めて治療用サイクロトロンが作られたんです。

b:それを私も調べたいと思っていたんですが、ポスドク問題やっていたときに、何でポスドクの人たちが皆マンハッタン計画に行ったのかと言う話を調べて、どこかで見た気がするんですけど、その時にローレンスがもっと基礎科学を振興しないといけないと言って、医療と結びつけたら、政府が予算をつけてくれるかもしれないという話をしたみたいですね。これはどうみても、マンハッタン計画のころなので、ローレンスがそれを進言したのは大戦の前になるのかなと思っているんですけどね。

n:大戦の前ですね。1930年代だと思いますね。その時にすでにローレンスの弟さんを呼んでいたのです。実は、ローレンス自身も、もともとエール大学の方だったんですよ。当時はカリフォルニア大学は、それほど大学としても大きくなかったのですが、そこへ行って名前をあげたんですね。

b:ローレンスの弟さんが来たのはその当時だったのかな?

n:はい。時代としては、当時でしょうね。もっとも、数年以上、弟さんがエール大学から動くのは遅かったと思いますが。

b:まあアメリカがどうやって医療と放射線を結びつけたかというのは、興味がありますね。日本は遅れていますが、アメリカとヨーロッパはどういう関係かなと思ったりしています。そもそも、言い出したのは、キュリー夫妻の時代ですが、実際に実行に移したアメリカがやっぱり先進的なのでしょうか。 実はこれは余談ですが、最近EUで新しい医学物理士の教育プロジェクトが盛り上がっていて、医療のと物理学を基礎にした教育プログラムが始まって、アメリカを追い越す勢いだと聞いていますけど。

n:1937年にサイクロトロンで作ったリンのアイソトープを用いた骨髄実験の記録がありますね。ともかく初期のことですよね。ローレンスがサイクロトロンを発明したのが1930年代ですから。

b:そうか、それで、加速器を作ろうと熱心に思って、弟さんにも相談したんでしょうね。

n:まあいろんな使い方もありますよね。1953年ですか、DNAに対してトレーサーとしての放射線利用も発表されていますね。

b:ジョン・ローレンスというのは今何歳になるんですかね?まだ生きておられるんですかね?

n:91年に亡くなっていますね。1903年生まれです。僕がバークレーに行った頃は医学部長をやっておられたんですね。

b:なるほど。そこで頑張られたかたですよね。


ローレンスと原爆

n:僕が行った70年代は、ローレンスはもう亡くなられていましたね。しかし、奥さんには会ったことがあるんですよ。奥さんは理研にサイクロトロンを立ち上げた頃の話をよく覚えておられていて、ローレンスが、「あそこにマグネットがあるからあれで作れ」って進言したということです。終戦後にすぐ日本にきたんですよ。
ローレンスは原爆を落とすに反対だったんですよ。それでアルバレとかボブ・サーバーとかいろんな人に頼んで、手紙を書いたんですよね。長崎に落とした原爆と一緒に、手紙を瓶に入れた落としたらしいんですよ。3発落とした内1発だけ嵯峨根先生のところに届いたんです。アメリカ側の読みは、ローレンスと同僚の嵯峨根先生は偉い人に違いないから、政府にこれを見せて停戦してもらえないかといった、そういう気持ちも知ってほしいと言う望みもありました。
バークレーのローレンスがつくった184インチサイクロトロンに、嵯峨根マグネットというものがあるんです。ミッシェルパラメーターを計るための磁石でした。結果は今となっては間違っていたのですが。ともかくローレンスは嵯峨根先生と友達だったから、嵯峨根のいる所には原爆を落としたくないと強く言っていたらしい。しかし、軍は結局強行したんです。受け取った嵯峨根先生は、その手紙を家に隠していたらしい。
話は飛びますが、磯谷さんという九州大学の教授がおられて、彼は福井の武生出身です。僕の先祖もそうなんですよ。そこで、彼とは仲良くなりました。ある時、磯谷さんが嵯峨根先生の文集を出したいけど、何かいい題材がないかということを言い出されました。で、こういう話がバークレーで伝わっているよと、この話をしたんですよ。そしたら、驚いたことに、嵯峨根先生が生前これは誰にも見せるなっていう書簡が、娘さんの千石節子さんという方によって発見されたんです。
ちなみに、僕は嵯峨根マグネットで実験した最後の人間なんですよ。

b:いろいろな発見があるものですね。

n:話は変わりますが、ウーさんの話はご存じですか?

b:ウーさんって、パリティ非保存を明らかにした実験家ですね?ノーベル賞をとったと思われている中国出身の?

n:ウーさんは南京大学卒だったんです。当時、ウーさんの先生がミシガンに留学していたんだって。その先生が帰ってきて、「私の行っていたミシガンの大学に行きなさい」って言ったそうです。その頃は船で行く時代だから、船でミシガンに向かって行くと、まずサンフランシスコに着きますよね。そこで疲れたから、サンフランシスコの友達の家に1?2週間泊まらせてもらったらしいんですね。その時に、何もすることがないからバークレーのキャンパスに行ったらしい。そしたら、いろいろ案内してくれた文科系の人がいて、その人は物理の人ではなかったので、物理で中国から来る学生がいるからと、ある人を紹介されたらしい。Yuan Leeと言う人でした。その人はウーさんにゾッコンになってしまって、ミシガンに行くのを止めさせたらしい。バークレーの学生にしろと学部長と交渉して、ウーさんはバークレーの学生になったんです。このYuan Lee は後にウーさんの旦那さんになりますが、袁世凱の子孫とか聞いています。

b:そんな経緯があったんですか。人生、どこでどう変わるかわからないですね。

n:それでね、セグレ(エミリオ・セグレ:1959年ノーベル物理学賞)がウーさんの面倒を見ることになるんですけど、ウーさんはセグレのことがやや苦手だったと後で聞きました。

b:なぜですか?

n:それは僕もよく分からないけど、僕はセグレ・チェンバレンのグループに居ましたので、その時に聞いた話からの推測ですが、例えばチェンバレン(オーウェン・チェンバレン:アメリカの物理学者)は人の話を聞くときに、ふんふんと聞いて、あーしたらどうかこうしたらどうかという示唆をしてくれるんだけど、セグレはもうすぐに「なぜだ」と言ってしまうと聞きました。

b:へー、顔は優しそうなのにね。

n:ウーさんは僕がコロンビア大から日本に帰るときには、もうお亡くなりになってしまったんです。

b:そうですか、97年だから85歳ぐらいですかね。

n:ともかくね、ウーさんが亡くなられたので、僕は追悼記事を物理学会誌に書いたんですよ。その頃ウーさんにまつわる話をたくさん聞きました。


アスタチンと重粒子線治療

n:アスタチンって書いてあるでしょ?

b:アスタチンを飲むことができないだろうかって、これα粒子が出るんですね? でも何も著作にしなかったというのは勿体ないですね。

n:これが、僕、放射線医学に興味を持った出発点なのですよ。バークレーの184インチで医療が実際に行われて、その後ベバックというのができて、僕のグループの向かいでやっていたのが重粒子線治療なんですね。東大医学部の坂本さんも実験をやっておられました。

b:重イオンで映した写真もお持ちでしたね。

n:重イオン写真は、X線より鮮明で良いんだっていう一つの特徴を示すものです。

ネズミの重イオン写真(左)とX線写真(右)の比較。線量は左が約百分の一

(エックス線の約百分の一の線量で、ネズミの断層写真がきれいに撮影できている)

b:重イオンになると、幅がルートA分の1になるという、A個あるのですから、いわば統計的な誤差が、ルートA分の1になるという、誤差の一般論ですね。重粒子線がフォーカスがいいという話はよく聞いていましたが、その原因をちゃんと書いている先生の解説は、読んで初めて知りました。そのことは知らなかったんで面白かったです。そしてそれを使って脳の構造まで見たのは知りませんでした。面白かったです。

n:1970年代かな。坂本先生は重イオン照射をやっていた先生で、粒子線をすごく信頼している先生だったんですよ。だけどね、放医研は、粒子線として中性子から始めたんですね。その後、重イオンに変わったんだけど、これは1993年ですからね。何年前になるのかな。

b:そうすると、一番最初の重粒子線治療用加速器はどこでできたんですかね?

n:それはバークレーですね。1970年代だから、日本は20年遅れてですね。最近やっとね、医療健康保険に適応になったんですよ。

b:主な治療は前立腺じゃないですか?

n:前立腺が一番良く効くと聞いています。

b:そうですか、放射線治療も保険効くのもあるんですね。

n:現在、2つ症例が保険適用と聞いています。将来増えていくと思います。今治療しているのは、放医研、兵庫県立大とか群馬大学です。

b:増えてきましたね。日本に一番多いとか。

n:ここに2008年に東大医学部で話した時のプロシーディングがありますが、医療用加速器はバークレーで1954年に最初にできたと書いてあります。この原稿は2008年までしか書いてないんですけどね。この頃から医学物理士の必要性をいろいろ言っていたんだけど、なかなかですね。

b:まあやっと日本でも放射線治療が広がってきたんですね。ありがとうございました。


対談日:2017/@@/@@
インタビュアー:坂東昌子

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