放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

menu

研究者・専門家へのインタビュー(有馬朗人先生)

有馬朗人先生へのインタビュー 第3回 (2/2)

澤田 研究の進め方だったりとかはどのようなかんじだったんですか?

有馬 研究の進め方はね、私が湯川研究所でよかった体験はね、湯川先生の研究室にいるとコーヒーブレイクがあるのよ。よくみんなで昼食を食べた後とかに話し合うことができたんです。それからアメリカに行ったのですが、アメリカで非常に良いと思ったことは、10時になるとコーヒーブレイクがあって、昼飯があって、3時になるとまたブレイクがあって、一日中ブレイクがあるんです。特に午後にはみんな集まってきて話をするんです。

澤田 それは雑談なんですか?

有馬 雑談です。もう一つ面白いのは週末などに夕刻カクテルパーティーってのがあるんです。そこには夫婦で来るんです。一般の人が来たりもする。それは大学の中ですることもあるけど、だいたいはそれぞれの研究室の中心のひとが家やその町のどこかの場所を探してやるんです。そこでね、絶対に言ってはいけないことがあるんです。それは自分の専門なんです。それで私は考古学の話をやったんです。考古学はみんな喜んで話を聞くからね。何を言いたかったからと言うと、私はね、とうとう東大でも成功しなかったし、武蔵でもだめでね。でも東大の研究室はやっていた。そこでは素粒子、原子核物理、みんな一緒になってコーヒーブレイクね。それはとうとう他の大学でもできなかったし理研でもできなかった。それを昔湯川研でやったのよ。なにが重要かというと、例をあげると、アルゴンヌ研究所です。1959年から1年半いましたし、1961年に3ヶ月また行くわけだ、それから1963年また夏休みに行ったのです。するとみんながコーヒーブレイクにわいわいやっているんですよ。「不思議なことがあるんだよ」と。ベルテレフォンでね、電波の研究をしているんだよと。電波の研究でね、ヘリウムを使って冷やしてもどうしてもノイズが消えないと。これの実験が確定するのが1964年でした。ビッグバンの痕跡ですよ。でもそれがはっきりするまで、なんでノイズがとれないのかって。原子核研究の連中がマイナス270℃付近になってノイズが消えないはずがないといってね。それから帰ってきて少したったらこれはビッグバンの証明だっていうことがはっきりしたのです。もう少し深く考えれば大きな仕事になったのですね。残念なことをしました。今は少し大きな話をしたけどね、そういう大きな話じゃなくても原子核でこんな現象が見つかったがそれはどうして起こるのかな、とか話をするわけですよ。このようなコーヒーブレイクを日本でやるべきだというのが私の長年の念願なのよ。

ANL-E aerial 22037k4

現在の米国アルゴンヌ国立研究所(Argonne National Laboratory)


澤田 坂東さんとお会いしたのは3.11の後なんですけど、思ったのはこの方は凄く雑談力があるんですよ。一つのことを話していてもなんか関連性があるんだけど別のことに移っていってまた別のことに移っていって、そのうちこうお互いにこれだというのが出てくるんですね。それが面白いなとおもって。

有馬 それをね、湯川先生はアメリカにおられたと頃に身をもって体験されたんだと思うよ。その前の1934年に核力の研究でパイオンの役割を発見されたときにね、そういう雰囲気がなかったんだと思うんですよ。大阪あたりは自由だからね菊池(菊池正士)先生の研究室でパイオンの着想を得られたんだけど、ご自分がいろんなアイデアを考えながらみんなと議論できればいいなと思っておられたんだと思うんですよ。アメリカやヨーロッパのようにコーヒーブレイクのようなものがあると良いと思っておられたのではないかと私は思っています。「β崩壊のパリティ対称性の破れ」を発見したひとりのヤンさん(楊振寧、Chen Ning Yang)とカクテルパーティーで話をしていて、大失敗したことがあるんだよ。私は中国の古典が好きだから、特に中国の神話なんかがすきだからその話をしたら、ヤンさんのほうがよっぽど良く知っているんだよ。そこでメキシコに行ってね、メキシコの昔の歴史なんかを見てね、マヤの神話や伝説みたいなのを仕入れたわけよ。それで帰ってきてパーティーに行ってね、ヤンさんに、「知っているか、こういうマヤやインカの神話も面白いぞ。」とか言ってたら、何のことはない、ヤンさんのほうがよく知っていたんですよね。それでヤンさんのファンになってものすごく仲良くなったんですよ。去年の今頃にヤンさんの95歳の誕生日の祝賀会が北京であったので、私も出席したらヤンさんは大変喜んでくれました。そういう意味で私はもっと日本の人たちにパーティーを活用して欲しいんですよ。

澤田 日本の場合は、専門家になっていくと、専門領域に閉じこもっていくから他の領域と雑談ができないんですよね。

有馬 そうそれがねヨーロッパやアメリカの強いところで、専門家だけの集まりならいいけど、一般の市民が入っているところで自分をひけらかしたらだめなんですよ。というよりそれ以上に他の人のまったく違う話をきくのが良いよって事なんです。自分の専門じゃないことで話をすることでいろいろなヒントが与えられる。これは一般の社会のカクテルパーティー。それで専門家だけになるところは、そのコーヒーブレイクなんですよ。それもやるんだよ。それもやりながら人の話を聞くことにより、自分もはっと新しい考えを思いつくようにしなければいけない。

澤田 コーヒーブレイクの場所はどこなんですか?みんなが集まりやすい場所にするんですか?

有馬 だからね、例えば研究室があってその前にちょっとした広場があって、そこにコーヒーポットを持ってきてコーヒーブレイクの場所にします。廊下の角にコーヒーポットが置いてあっていつでも飲みにこられるんですよ。しかも10時ごろになるとわーっと来て、10時半になると分かれて、昼飯にまた来る、午後3時にまた来る。いずれにしてもそこでね、情報がものすごく早く伝わるのよ。これを日本はやらないのは損すると思うんだよな。それは単に理系だけじゃなくて文学だってあるんだよね。専門家の集まりのときに同じ文学のひとでも西洋文学のひと、東洋文学のひと、日本文学のひと、いろんな文学者がいるでしょ。そうすると文学者同士の高級な話ってあると思うんだよ。私がよく言っているのは、ヨーロッパにはギリシャ以来、長い詩がおおいと。おもしろいのはギリシャだけじゃなくてローマの歴史についての長い詩もあって、その次ダンテの神曲があって、現代でも長い詩を作っているわけ。のみならずフィンランドやスウェーデンもそれぞれ長い神話を詩にしてもっているわけ。ところが中国にはないし韓国にもないし日本にもないんですよ。長い神話を詩にしてもっているのがモンゴルだとかアイヌとか周辺民族なんです。なぜかヨーロッパでは歴史上強い国が長い詩を書いてる。弱い民族も書いている。に対してアジアは中国中心で中国にも日本にも韓国にも長い叙事詩がない、だけどもモンゴルやチベットにある。なぜか。こういうことをね、西洋文学者とか中国文学者とか日本文学者が集まって話をすると面白いことがたくさんあるんですよ。ところがインドは長い叙事詩があるんだよね。ヨーロッパ・中近東がひとかたまり、それからアジア・極東がひとかたまりで、インドは丁度真ん中ぐらいで、むしろどちらかというとヨーロッパに近いね。言語的にもそうだよね。そういうことをね、きちっと全世界的な視野できちっと見ることが必要ですよね。

 それで今度はっと思ったのは、それはね、最近ね、「B.C.1177」(エリック・H. クライン著、筑摩書房)という本が出て、それはね海の民族が当時のエジプトだとかギリシャの文明をぶっつぶしたという話なんです。その本を読んで何でぶっつぶれたかが未だにわからなくて、昔海の民が来たからだというけど本当だろうかと、それで実にいろいろなことを調べているんです。地球温暖化のことや海の民とは誰だったのかとか、そういういろんな事を調べ上げて結局わからないのよ。でもその本を読んでびっくりしたんです。要するに、ギリシャの王様やエジプトの王様やバビロニアの王様たちが非常に親しく交流しているんですよね。それで思ったんです。そういう大国間の交流が中国にあっただろうかと。古代の東アジアでは中国の文化が圧倒的で平等に日本、韓国、ベトナムなどの周辺諸国の間にはオリエント諸国のような交流がなかったのではないでしょうか。思想や宗教の面では古代中国が他国から行け入れたのは仏教くらいでしょう。面白いことがあって、モンゴルだとか満州族は、モンゴル帝国や清王朝を作るところまでは頑張るわけですよ。ところがモンゴル人も満州族も中国の文化に染まってしまうんですよね。もう一つ興味を持つのは、14世紀頃かな、やっぱりモンゴリアンが攻めていってイラクを占領してるんだね。ところが面白いことに占領すると同時にイスラムになってしまうんだよ。宗教も変えてしまうんだよ。要するにモンゴルとかチベットとかね、中国に行くと中国の文化に染まってしまうんです。中国人はその影響を受けないんだよ。日本も侵略したけど、日本の文学だとか文化の影響を中国は全く受けてないんだよね。特に私が最近知って驚いたのは、せっかくイラクまでいってイスラム帝国を潰したにも関わらずモンゴリアンがイスラム教徒になってしまうんですよ。これはね、典型的に私が言ってる中国周辺の国は文化力がなくて、やはりイスラムに行けばイスラムに負けるし中国にいけば中国に負ける。そこがヨーロッパと極東の違いだろうと。


澤田 例えば日本の古事記とかはどうなんでしょうか。

有馬 私の珍説があってね、これは国語学の人に笑われてしまうんだけれども、太安万侶が文章にする前はね、詩で唄ってたのではなかろうかと。古事記を読むと所々詩的なところが出てくるんですよ。これが私の珍説中の珍説なんですよ。それでなぜヨーロッパでホメロスの長い詩が伝わっていたかというと、あれは詩の形で覚えていたんです。モンゴルもそうで、モンゴルの物語でも、やっぱり覚えるために詩で覚えているんですよ。だから日本だって長いものを覚えるためには字がなかった時代は詩の形で覚えていたのではないでしょうか。だから稗田阿礼もそうだったと思うんだよね。なんでその辺をもっと研究しないんだろうなと思うんですよね。

澤田 そういう研究に今突っ込める人はいないですよ。

有馬 だけどやっぱりアジアの中華中心思想と、ヨーロッパの国々がみんな独立して競争し合う違いがね、どうも西暦前からあったと。日本の長編叙事詩の可能性を追求していくと、平家物語は叙事詩でしたという説が出てくるわけよ。じゃあそれを本当に実証するような検証があるのかというとないんだよね。だから何が言いたかったかというと要するにカクテルパーティーをやりなさいよということなんです。


澤田 ところで、坂東さんがいらっしゃったので仕切りましょう。

有馬 湯川先生が基礎物理学研究所を共同利用研究所になっさったことをもっと讃えなさいと言う話をしたんですよ。湯川先生の理念が実現した国ってどこだかわかる?それはねヨーロッパだよ。CERNとか、そのような国際的な共同研究をする出発点を日本で作ったのは湯川先生なんですよ。それはねCERNに聞くと俺たちがやった俺たちがやったと言うけどね、歴史的にいうとCERNは1954年、基研は1953年です。明らかに湯川記念館が先なんですよ。それはもちろんコペンハーゲンにいろんなひとが集まってきたことはあるんですよ。だけどコペンハーゲンを見ていると、ニールス・ボーアを慕ってくるひとが来るだけの場所で、それ以上共同利用する考えはないわけだけれども、湯川記念館というのは理論物理学の共同利用研のはじまりで、それがさらに伸びていって物性研ができて、さらに宇宙線研究所ができ、共同利用目的の大型計算機センターができました。あらゆる大きな立派な共同研究所の出発点は全部湯川研なんですよ。

坂東 湯川先生のえらいところ、もう一つありますよ。要するに自分の分野と違う分野を結びつけたんです。

有馬 そう、違う大学をそもそも結びつけたんです。あの頃の京大対東大の競争とか他にもいろいろあったのを、湯川先生がまあまあと言って湯川研を始められて、あれができてからすぐに原子核研究所ができ、高エネルギー研究所ができ物性研ができね。だから湯川先生が亡くなられてもう30年たつけどさ、湯川先生の偉いところは、みなさんはもちろん物理の偉さを言うしもちろん私も同感だけれども、敗戦後みんな貧乏なときにあれを救ってくれたのは湯川先生だよね。それから違う大学を結びつけたのも湯川先生だね。それから違う研究分野を結びつけようという流れも共同利用研究所からなわけよ。だから全部湯川先生の思想だと私は思います。それが今やもうアジアだって例えば韓国にある理論物理学センターね。あれだって私は行く度に言うんだけど湯川研が出発点だぞってね。

坂東 まああそこはそのつもりみたいですけどね。

有馬 やっぱりねその点、日本の学問体系は閉じてると言われるけどそうじゃないですよ。オリジナリティーもあるし国際性を非常に持っていたと。日本は敗戦国で日本人はオリジナリティーがないとアメリカなどから言われてきたんですよ。アメリカで発明したものを作って儲けているじゃないかってね。でも日本の発明・発見が実はたくさんあるんですよ。ぼくがいつも言うのはね、長岡半太郎の土星型原子模型ね。ラザフォード=ボーアの発見とアメリカ人やヨーロッパ人がみんな言うけどね、長岡=ラザフォード=ボーアの模型だと言え、と私は言っているんですよ。やはりね、日本人ね今こそ自信を持ちなさいと思うんですよ。だからみなさんお願いですよ。原子力にしても何にしても、もっと自信をもっておやりくださいということですよ。原子核だって素粒子だって最近なんとなく元気がないんだよね。

和田 さっきちょっと話していてやっぱり若い人へのメッセージをいただこうと言っていたので、今ちょうどいただけて良かったです。

有馬 それはね、もともと話が放射線放射能の話から始まったからね、放射線放射能の問題も一番大きな教育の問題なんだよ。それは1981年(昭和53年)頃かな、それからちょうど2011年の大震災の前だから2010年まで、平成時代はおろか昭和にさかのぼって1985年ぐらいから始まって2010年まで中学校の教科書から放射線放射能の内容がなくなったんです。そのことがあってどういうことになるかというと1991年と2001年に2回、大人の理科の力をOECDが調査しているんです。その中の一問が「放射能を持つモノは人工的なものだけですか?」というような質問で、日本人の大人の理科力というのはヨーロッパ諸国に比べて圧倒的に低いんですよ。それで1991年に調べたときにスペインとかギリシャの方が日本より上だったのよ。それで2001年にもう一回調査があって、そしたらまたEUの平均値よりも下なのよ。ところが小学校や中学生対象のTIMSS(第2回1/2参照)によると日本ほど数学力理科力のある国はないとなっているんだよ。それでも大人になるといつか逆転してしまうんですよ。その理由のひとつが今言っている放射線放射能をきちっと教えなかったというのがあるんですよ。それでその教えなかったことが一番害を及ぼしたのが現代で、せっかく復活して教え始めたときに例の東日本大震災で大津波があって放射能がまき散らされてそれで放射能に対する恐怖心が大きくなってまた中学でしっかり教えなくなったんですよ。でもそれこそ理科の先生は苦労しているんですよ。自分たちが教わっていない事だからね。そういう人たちに対して放射線放射能の有用性と危険性を教えなさいと言う話をよくしているんです。


 2011年の大震災の直後にあった大失敗は、ひとつは1ミリシーベルトと言ったことだよね。要するにこの辺の自然に2.4ミリシーベルト(一人あたりの年間被ばく線量の世界平均値)ぐらいの放射能があるわけでしょ。それで大地からくるのはそのうちの0.4ミリシーベルトぐらいでしょ。その0.4ミリシーベルトのところに福島ならまき散らされた放射能が加わって少し高くなっている。そういう意味でなんで1ミリシーベルトなんて言ってしまったのかね。それは原子力賛成反対ではなくて、原子力に対する怖さというのを何でそういうふうに言ってしまったのか。1ミリシーベルトってああいうふうに言ってしまったもんだから、未だに福島の農作物が売れないとかね、韓国や中国は買ってくれなかったけどやっと買ってくれるようになった。ところが日本人は買わないと。そういう異常な恐怖感というのがあるんですよね。そこで私が申し上げたかったことはもっと教育をきちんとして、第一にね、科学や社会の授業で基礎的なことは中高できちんと教えると。大学の問題点はいつも言うけど、平成元年から人口が減ってきている。一方大学は大学を増やしている。だからトータルの人口はは減っているのにもかかわらずトータルの大学生の数は増えているんです。ということは昔だったら絶対大学に入ってこないような人が入ってきているということですよ。だからわたしは冗談に馬鹿が入っていると言うけど、まあそういうことを言わないで、もっとその人たちを育てなさい、と言いたいんですよ。理科の力にしても数学にしても学力が非常に強いんだよ、日本の若者はね。大人だって読み書きそろばんだったら凄く強いんですよ。だからね、私は今の日本を救うために一番大切なことは「若者を育てよ、若者に意欲を与えよ。」と。そのため国立公立私立大学や専門学校全てをふくめて高等教育費をもっと出して、大学の先生たちが十分研究や教育をできるようにして、若者も学力を大いにつけ、ひとによってはもっと研究を続けていくようにしなさいと言っているのです。

 それを逆に今は国立を法人化したことによって、教育費がなんと毎年1%減らされて今や15%も減らされてしまっていると嘆いているのです。こういうふうに運営費交付金を徹底的に減らしたことは日本の科学技術力を弱めた最大の原因だと私は思っているんですね。これはこの前自民党の連中にも強く言ったし野党にも言ったのです。少子化なんだからその分高等教育を良くすれば、みんな能力のある人が多くなるわけで、少子化を逆に使って徹底的に教育力を上げて日本の若者を育てる。これが今日の日本を救う最も強力な方法だと言っているのです。そしたら論文の数も当時は2位までいって今は5位まで落ちたことも改善するだろうと。教育力の低下は学力の低下だけじゃなくて博士課程に進学しようと思うひとの数も減ってしまったよね。そのようなことをなんとか救わなければいけない。文系も大切なんですよ。文科省が文系を弱めるとか言ってましたよね。馬鹿なことを言うなと。いろんな文化を支えているのは文系だよと。現に文系が弱くなると官僚が弱くなって政治家の力も落っこちていくんだよ。本当に官僚が弱くなったよ。だからそういう意味で文系も含めて徹底的に高等教育を良くしなさいよと。

SCOPUS(1981-2017、Elsevier社)のデータを用いて科学技術振興機構(JST)が作成
JST「151研究領域におけるTOP10%論文数の国際シェア順位の推移(7か国比較)」より引用


有馬 そして一番重要なことは根本的に研究というのはボトムアップだと思っているんですよ。国としてこれこれやりなさいと言うこともよくあるよね。それは意味があって、国としてAIにもっと金を出すとか、例えば医療に中心を置くとか、それはいいけどそれにしても国から与えられたミッションにしても新しものを生み出すのはボトムアップの力ですよ。個人個人がそれぞれの研究機関に集まって、それぞれの研究機関の個性が出て、それで始めて強い力になるわけで、いきなり外からこういうことをやれって言われてしかもその研究費が三年ぐらいで止まるっていうのではなくて、ボトムアップでみんながやりたいことをずっと続けてやれるようにしなさいと。そして研究費もせっかく伸びてきていたのに今落ちてきた。なんとか今この研究費を増やすようにしたい。せっかく科学技術基本法ができてある程度の予算が付いているわけだからこれを絶対有効に使うようにしなさいと言っています。幸いそれはトータルでは増えてきているんですよ。トータルで増えてきているんだから科研費なんかも増やして欲しいのです。それから2000年頃に東大始め京大、名古屋大にしても国立の教育研究環境は良くなったと思うよ。あの教育設備費なんかも2000年頃に基礎科学についてもっと良くしようというので、建物の費用が増えてね、ずいぶん建物もよくなりましたよ。それがまた減ってきているから、また各大学で建物の問題が出てきているんですよ。もう一度考え直して、研究教育施設費から始めて、15%に減ってしまった運営費交付金を増やしなさいと。これは国立公立に特に言えることだけど、私学への助成金も減っているんだよ。私はそれで憤慨しているんだけどね、財務省にそれを言うとね、「高等教育は一部の人が使うんだから使用者が負担するべきです」って言うのです。60%も大学に進学しているんだったらそれはもう義務教育ですよ。なんとか高等教育費を増やすべきです。そして若者の教育に向かう希望も大きくできるように将来に希望が持てるようにして欲しいのです。なんとなく今ね、国立も公立も私学でさえ、しっかり正式に雇用される若者がすごく減っているんですよね。だからなんとか高等教育費をあげなければいけません。それとね、年取っている教授准教授にはわるいけどさ、55歳ぐらいになったら給料はこれ以上は上げないとかにしたらどうだと思うんですよね。その分若者に回せと。

坂東 私も物理学会でそれ提案したことあるんですよ。ポスドク問題で、上の人の給料を半分にしてそのぶん若い人を雇ってね。

有馬 いい考えですね。私も同じような極論を言っているんだけど、私はもう一つ言いたいのは、年寄りも頑張れと。定年を65歳なんて言うなと。70歳とかね。80でもいいよと。ただし給料は半減せよと。極端に言えばほんのお礼だけで済ませと。その代わり研究の場所は与えると。現在は高年齢の人が研究する場所がないからほんとうに損しているんですよ。アメリカやヨーロッパなんて、じいさんばあさんがぞろぞろ来て研究していますよね。だから年寄りも頑張れと。それはなぜかというとね、財務省に聞くと、国は社会保障にものすごくお金をかけているんですよ。要するにじいさんばあさんが病気になったときにどうするかという話でね。じいさんばあさんも働いたらいいじゃないかと言っているのです。働いていたら病気にもならないよと。ともかくどんどん教育に財政支出を増やしてくれと言う話です。社会保障もないと困るけどさ、ほんとうに困っている人にお金がゆくようにしてあげて、働けるひとは働かしてしまえというわけです。だから小学生や中学生だって可哀想に学校行く途中で殺されたりしてるんだからさ、もっと積極的にいい人材を見つけてね複数の人がその子どもたちを学校に連れてくとかにすればそんなことは起こらないわけでさ。

澤田 有馬先生が23歳ぐらいのときですかね、基礎研でおられて今そういう環境がないというか。

有馬 それはね、今の大学は可哀想なんだよ。金がないしね。

澤田 お金もないし、なにかこうパワーを持った方が少ないというか、例えば坂東さんみたいな人がね。

坂東 お金がないというより暇がないというのもありますよね。

有馬 だからさ暇がないという理由は私も気になるところがあって、大学の先生はまず教育者であれと言ったからね。だけどそれ以上に先生と学生の数の比を見るとね、1人対40人とかね非常に多いですよ。私は東大に居た頃を思うとね、まあせいぜい30人ぐらいよ。そのくらい余裕がないとね、時間がなくて研究もできなくなるよね。

坂東 教育に時間を取られるならまだ良いけど、会議ばっかりなんですよね。それでなんか書類書いて報告ばかりしているけどね。

有馬 これは私の大責任なんだけれども、外部評価を導入したのは私なんだよね。だから大学でもこの頃は、何年に一回かは外部評価を受けろと。あんなのは5年に一回でいいよと私は言っているのです。毎年やるなどは反対です。東大で自己点検をやったんだけれどもね。

坂東 自己点検は大事なんですけどね。

有馬 そうですね。自己点検ですら私は5年に一回で良いと各省庁に言ったんですよ。

澤田 文科省に毎年やっている方が評価されるだろうというのがあるんですよね。

有馬 山際京大総長はね、私がやった国立大学法人化は大失敗だったと言ってくれているんだよ。要するに、大失敗だったことがいくつかあってね。ひとつは運営費交付金が減らされたことね、それから施設費が減らされたことね。こんな馬鹿なことはない。逆に良い面もあってね、たとえば山際総長たちが言いたいことをどんどん言えるようになったんだよ。昔は国立だから言えなかったんですよ。外部評価もあんなにやることはないよ。5年に一回くらいで十分です。

坂東 東大の理学部の大学評価一回見たことあるんですけど、外国人と女性が少ないとのことだったんです。それで、別に女性を減らそうと思ってやっているんではなくて、ちゃんと選んだらこうなったんだって。

古徳 まあ実際に志望者が少ないというのもありますよね。医学部でも女性を落としているわけではないので。東大の話で言うと僕の時なんか50人のうち2人しか女性はいなかったんですよ。

有馬 やっぱりね、日本を救うもう一つの課題は女性の活用だよ。だって私が初めてフランスに行ったときも1970年でずいぶん昔だけれども、その時から威張っていたのはマダム・ファラジーとかね。とても親切でいい女性だったな。それからゲッペルト・マイヤー(マリア・ゲッパート=メイヤー、Maria Goppert-Mayer)とも私は29歳の時に激論を交わしたりしていましたね。それでそのあと日本に来てもらたこともあったね。ともかく女性が強かったね。それで私がやっている群論を物理で使う研究なんかも女性が始めたことなんだよ。ドイツ人のネーター(アマーリエ・エミー・ネーター、Amalie Emmy Noether)だね。

Maria Goeppert-Mayer

Maria Goeppert-Mayer(1906-1972)
米国の物理学者、1963年ノーベル物理学賞受賞


有馬 現在の日本はフランスを真似ろと私は言っているのよ。なぜかというとね、第二次世界大戦が終わった後、フランスは人口の減少に悩んでいたのよ。その時に何をやったかというと、女性に活躍する場を与えたのですよ。働きやすくしたのです。それがずいぶん良くて、少子化が改善したんですよね。今頃になって日本も言い出しているけれど、遅いよって話なんですよね。それもやっぱり大学を見ていても女性が少なすぎるね。生物系では増えていますが。

坂東 物理学会でも物理チャンピオンのやつをやったときに100人のうち女性が10人ぐらい来ていたんですよ。それでみんなどうするの?と聞いたらみんな医学部志望でしたね。

有馬 アメリカで1970年頃、人事に関する手紙でね、「まずマイノリティーをとれ」と書いてありましたよ。「その次に女性をとれ」ですよ。それでなかったら男を取れと。その頃から女性が増えてきたんですよ。

坂東 たしかに素粒子でも活躍している女性が多いですよね。

有馬 だからやっぱり日本でもそれやらなくちゃダメだね。やはりまず女性から選べと。

坂東 最近は女性限定というのもありますからね。男の人は怒っているけどね。

有馬 これはやはり人口問題から始まってやむを得ないね。女性の力は使わないとやってられなくなりますよ。俳句なんて女性ばかりですよ。戦後から10年ぐらい経ってからは女性が強いね。俳句や短歌なんかは断然女性が強い。もともと短歌なんてモノはずいぶん万葉集の時代から文学の上では女性作家がいます。紫式部とか清少納言とかみんな女性じゃないですか。古代から中世にかけて女性の文学者がこんなに活躍している国は日本ぐらいですよ。そういうこともあってね、今はっきりいえることは、俳句だと70%ぐらいは女性だよ。

澤田 ではそろそろお時間になりましたのでここで一旦終わりにしたいと思います。

坂東 実はJSTで、科学コミュニケーションというので私たちが3年前に放射線の低線量の影響について、みんな噂ばかりで元論文を読んでないのでそれを書いて分野横断的に疫学から生物まで。

有馬 一昨日も福島の話をしたけれどもね、1ミリシーベルトってみんな怖がるけども天然や自然に2.4ミリシーベルトがあるんだよと。特にインドなんかにいくと9ミリシーベルトぐらいあるんだと。そういう話をしてね、しっかり対策していれば問題ないんだと。

坂東 けど先生、それよりすごいのは、我々の中で例えば放射線の変異が起こるじゃないですか、それのバックグラウンドとかみたらそれの1000倍なんですよ。自然放射線の1000倍ぐらいの影響を受けているんですよね。それをね一番最初に言ったのは実はマラーなんですよ。マラーはずっとLNTを唱えていて、ちょっとの放射線でも怖い、と言っていたくせにそれを知っていたんですね。放射線の影響というても1000分の1で1ミリシーベルトなんてしれているわけですよ。そのことをみんな知らないので、我々は本を書いたんですよ。分野横断的に書く中で、分野の違う人は考え方が違うと言うことがわかってきて、そこのところで統一していかないと、怖いという人と怖くないという人がいるのではだめだと。それで、その科学コミュニケーションをやりましょうというのでJSTに採択してもらったんです。それの3年目が終わって(3年間のプロジェクトが終わって)、まあいろいろ議論しましたね。特に健康調査については侃々諤々の議論をしたんですけど、最後に科学者はやっぱり横に繋がらないといけない、というので国際学会をやらないといけない。ということで、大阪と神戸でやったんです。それで今度それの総括会議をやるんですけど、先生はお忙しくて来れないそうなので、何かメッセージを頂ければなと。それでやはりもっと自分の狭い分野を視野を広げて国際的な協力をしながら今の低線量の放射線の混乱をきちっと科学者が解決していかないとだめだと。

有馬 そうですね。科学者自身がどのように一般人と話せばよいか。もっと対話をして、放射能放射線について説明をして行くべきです。それと同時に私は原子爆弾は辞めるようにしないといけないと思う。やはりこれは科学者として原爆はまずいよね。原子爆弾の怖さがどうだったというのを世界中の人たちがもっと知るべきですよ。だから私は原子力は賛成するけれどもね、原子爆弾というものを作った、そして使ったことに関しては世界中の科学者が責任を持たなければいけないですよね。

坂東 ほんとうにそう思います。どうもありがとうございました。


対談日:2018/9/3
対談場所:武蔵学園大学
インタビュアー:和田 隆宏、澤田 哲生、古徳 純一、坂東 昌子
音声書き起こし:澤田 哲生、角山 雄一

第3回 1/2 のページへ

» インタビューサイト トップページ