放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(有馬朗人先生)

有馬朗人先生へのインタビュー 第3回 (1/2)

和田 それでは、前回までのインタビューの続きを、というか今までお聞きできなかったところをもう少しお聞きしたいのですけれども。一つこの本(*確認中)を読んで割と年代順に書かれていたので、じゃあ最初にしたのは、堀内さん(京都大学名誉教授・堀内昶、東京大学理学部物理学科卒)で、有馬さんがいらっしゃるというは知っていたのですけれども、なんとなくもうエスタブリッシュされた後しか知らないので。
 子どもの頃だとかなりご苦労されたのですよね。

有馬 うん、親父が死んだもんだから。

和田 はい、それに病気もされたし。

有馬 カリエスだったんです。5つの頃ね。それでその時初めて、今だと 千葉大学の医学部になっているところが千葉医専と言って、そこに行って、ものすごく大きい物が恐ろしい音を、「ゴーー」と立てて、それがエックス線装置だったんですね。だから初めてエックス線診断を受けたんですね。昭和で言うと10年ごろね。それでね、足の膿んでいるところのカリエスを調べたところ、ここ切断しないといけないとだめですと言われたのです。そうしないと体中カリエスなっちゃうからって。でも嫌だってがんばったのです。結局それはね、自然治癒で治っちゃったの。そういう苦労をしたことがあります。

和田 それで割と転居もされたんですよね。最初、大阪に生まれて、茨城県に移り、そこからカリエスのため大阪で静養、療養されたとか。少し転々とされたような、転地療法というか。

有馬 転地療法は、それは大阪の宝塚のそばの花屋敷という町に西洋医学の、ドイツ医学の病院があったのよ。にもかかわらず面白いことにね、今でいうとちょっと精神的な治療、要するにそこで単に治療するだけでなくて日光浴をさせているとか、歩かせるとか、そういう運動もしながら自然治療するところだったのです。精常園っていう病院だった。そこでね、もちろん自然治癒はしていたんだけども、カリエスから膿がでてきて、自分で膿を出しちゃうまですごい治療をしていて。ところがその後敗血症になってしまったのです。そのころ問題だったのはまだ医学が進んでいなくて、敗血症が治せなかった。カリエスの膿はとれたんだけど、そのあと毒が回って敗血症になってしまった。それから午後になると熱が出てきて、夜になって静かになるっていう風なことが一ヵ月くらいありました。大体普通そこで死んでしまう人が多かったんだけど幸いにもそれも自然治癒で治してくれました。もちろん化膿に対する薬も飲まされてはいたけれども、今のような様々な抗生物質がある時代じゃないから、医者もしょうがない、成り行きに任せたところもあったんですね。でもまあ運が強かったんでしょう、それも治って。しかしながら片足が大変な病気だったから、小学校の5年生ぐらいまでは親父は自転車に乗るなと言っていたのです。ところが4年の頃から自転車に乗って遊びに行っちゃって怒られたことがあります。まあそれでもね、小学校の6年生の時の夏休みにまたその精常園の夏の学校にひと月行ったんです。その時に5つぐらいのとき見てくれた医者がまだみんないて、元気になったねって言ってくれました。そこで中学生と一緒に駆け足をさせられた。小山のあるところだからね、そこまで駆けて行って来いって言われてそこまで競争したら中学生が一番で、小学6年の私は2番だった。

昭和初期の花屋敷駅前通り(花屋敷駅は現在の雲雀丘花屋敷液)
画像引用元:雲雀丘100年浪漫委員会著「雲雀丘・花屋敷100年浪漫物語」


有馬 それで自信をもって浜松の小学校にかえってきたんです。戦争中だったからね、列車なんかなかなか乗れなかったんだけど、帰ってきて秋の学期が始まった。浜松ではそのころ、今でもやっているかもしれないけれど、5校ぐらいがひとるのグループ組織を作っていて、どっかの学校の運動会があると、それぞれの学校の選手たちがその運動会で競争しました。私の小学校でもその練習だって言って、始めはみんな一緒に100メートルかけたり、リレーをやったり、訓練をさせられた。そしたらその精常園で自信がついたのか、駆け足をしてみたら私が一番になってしまった。それが運の尽きでね、当時はね丁度我々の年だけかもしれないが、中学なんかはね、口頭試問中心の入学試験ばかりだったんです。何れにしても浜松の中学校の入試は口頭試問でしたが、当時はとても入学試験が難しいといわれていて、私が学んだ浜町西小学校5年、6年はもうほとんど受験勉強ばっかりだった。戦争の敗戦直前の1943年(昭和18年)に。


澤田 当時の受験勉強ってどんな感じでされたんですか?

有馬 要するにさ、どういう風にあるかというと、午前中に普通の授業があるわけで。午後はペーパーテストだね。

澤田 全員受けるんですか?

有馬 いやいや中学志望する子だけでね。他は自習させられるの、かわいそうに。まあね、7割ぐらいが中学校受験勉強ってことで、その生徒にペーパーテストの訓練をするのです。あとの3割ぐらいは高等小学校に行ってね。その生徒たちは自習をさせられるのです。要するにいろんなペーパーテストがあってね、数学や理科や国語ね、そのようなものを徹底的に練習するのです。私が浜松のその小学校に入ったのは6年の時ですから、5年の状況を知らないわけ。5年まではのんびりしていた。今でいう神奈川県の相模原っていうところでね。橋本という町の旭小学校に5年生までいました。橋本は京王線で直接東京に行けるようになって便利になったけど、そのころはね、もう田舎も田舎だった。小学校にまだ障子張りがあったころだ。そのくらい田舎だった。そんなところで中学校に行くような生徒はごくわずかだった。でしかも中学、横浜の方までいかないといけなかったから、そこの学区にあった農業の中学校があって、農業をやるのはその中学校だったんだけど、それだけであとは中学校らしい中学校がなくて、中学校に行こうと思ったら横浜の方にいくか、厚木の中学校か、その二つを選択しないといけなかった。そういう田舎から突然浜松のそれなりに大きな都市で受験勉強をやらされることになったのです。

澤田 浜松の方が、そういう受験が盛んだったんですね。今だと少し意外というか。

有馬 盛んだった。それはともかくとして、小学校の6年の時に受験勉強を皆やっていて、僕はその受験勉強の時に、5人選ばれて「お前は選手にしてやる」というわけで、毎日午後皆が受験勉強をやっている間、校庭で100メートルや400メートルリレーの先週をさせられたのです。

澤田  内容って今の私立中学と同じなんですか?どのように違うんですか?受験勉強って。

有馬 そのころは義務教育は小学校までで、中学って今の高等学校のように入学試験の競争がはげしかったのです。

澤田 5, 6年というのは小学校の話ですか?

有馬 5, 6って、中学校で義務教育が終わるわけだよ。

澤田 なるほど、じゃあ中学校5, 6年の話なんですね。

有馬 ちがう。小学校の5年までは相模原にいて6年の時に浜松に移って受験勉強やらされて、その後は浜松の第一中学校(現在の北高等学校)というところで教育されました。その中学校への受験だったんです。ここの武蔵高等学校も中学校があって大変だったんです。それでまあそういう時代で、その時代に体を十分鍛えたことは未だによかったことですね。理科について言えば、橋本という相模原の田舎の小学校の4年生の夏休みにモーター作りをして先生に褒められて、そこから理科が好きになって、浜松一中の1年生の頃は変圧器作りと、2年生では真空管ラジオを作って喜んでいたんです。それが3年生になると、戦争が激しくなって空襲もあるし大変な時代だったんです。それで2年生の3学期や3年生の1学期は軍需工場に動員され、旋盤を扱っていたんです。逆にそれが良かったかもしれないですね。だから私は中学の内に職業教育をちゃんとやれって言っているんだよ。毎日やることはないけどね。それでずっと旋盤をやっていて、東大に入って学生として旋盤を習ったんです。でも先生よりうまいくらいだった。そういうことがあって、中学校ぐらいから職業の面白さというのを教えるべきだとね。それで3年生の時に戦争が終わって、8月15日に、掛川にある軍事工場に行って着いたら「今日は旋盤は回さなくてよろしい」と工場長が言うのよ。旋盤を綺麗に洗いなさいと。なんでだろうと思いながら洗ったわけよ。それでお昼頃に集められて、終戦を伝えられたのよ。未だに不思議なのが、どこからそのような指令が来たんだろうってことね。一般の人は8月15日の朝なんてそんな情報を知らないわけだよ。それで敗戦状況になっていろいろ敗戦の処理なんかが始まるんだね。

県立浜松第一中学校(写真は昭和16年新築当時のもの)
画像引用元:株式会社中村組 企業情報・沿革ページより引用



澤田 会社の入社式とかは当時は9月だったんですか?それが4月に移行したのはむしろ戦後だったんですね。

有馬 いいえ。大学が9月入学から4月になるのは、武蔵高校などの7年制高等学校ができたときですね。大正の終わり頃。高等学校はもっとはやく4月だったかもしれないけど、大学の入学式というのは9月だった。漱石の小説なんかを読んでいると、8月の末頃に列車で東京に来て大学に入るなんてのがよくあるよ。そのころは大学はみんな9月入学でした。9月入学を辞めて大学・高等学校・中学校を全部合わせて4月入学にしたのが、7年制高等学校を導入したときなのですよ。
 この7年制高等学校というのは、中学校段階が4年間、高等学校段階が3年間、あわせて7年間で卒業できるという制度です。現在の中高一貫校のようなものです。その7年制高校が創立された際、それまでの一高、二高のような高等学校でも、中学4年生が5年生とともに入学試験を受けて、合格すれば中学校を4年で終了して高等学校へ進学できるようになりました。いわゆる飛び入学ができるようになったのです。

 それで私もたまたまそれを受けたら受かって、浜松の中学校の5年生に行かずにこの武蔵高等学校(旧制)に来たわけですよ。それで親父がいないから入学金も出さないといけないし大変だったんだけど、かなり安くしてくれたのよ。その頃から奨学金制度ができていてある程度もらえたしね。それでさてここに入ったのはいいけど、とにかく東京にばあさんがいるし職業もないし、なんとかしないといけないというのでお袋は内職をやるようになって、ミシンをしたり編み物をしたりね。私は高等学校に入るやいなや、夏休みに世田谷区役所の臨時職員になるわけだよ。それは義務があるんだよ。アメリカの軍隊からの命令でね。それで7月8月9月は朝からトラックに乗せられて、粉とか石油に溶かし込んだDDTをもって便所を回るわけだ。だから世田谷区のどこに便所があるかは分かってたんです。毎年そういうアルバイトがあったんです。百姓を手伝うとかね。高等学校の3年間の夏休みはほとんど朝から晩までどこかに雇われているか、あるいは家庭教師だね。家庭教師は年中やっていたけども、夏休みは特に忙しいわけよ。

澤田 ご自分の勉強する時間がないですね。

有馬 ないですね。それでさすがにこれではダメだというので高等学校3年の9月に家庭教師を1件だけにして、それまで稼いでたお金でなんとか食えるだろうということでね。それで大学に入って、なにがよかったかというと家庭教師の給料が倍増するんだよ。だから東大理学部といえば途端にぐあっと上がってさ。それで家庭教師だけですむようになって、それを毎日一件でたまには二件あったりもして、しかも土日も休めないからね。それで家庭教師をずっと続けて大学を卒業して、それで大学院を3年やってね。

澤田 大学の勉強はいつやられていたんですか?家庭教師をしながらはできませんよね?

有馬 家庭教師をしながらやていましたよ。

澤田 それは、生徒にこれをやっとけとか言ってその間にこっそりやっているみたいな感じですか?

有馬 それはないですよ。実験物理だと午後大学で実験しなければいけないのです。それで理論物理しかできないわけですよ。

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旧・武蔵高等学校校舎(現存する旧制高校時代の建造物の一つ)


澤田 先生は幼少のときから工作がお得意で、むしろ工学的なところに進まれようとは思わなかったんですか?

有馬 もともとはね、実験が好きでした。実験の先生にお前実験やれよって言われたんです。だけど実験をやろうとすると大学の授業が2時頃に終わったあとにしなければいけない。それだとアルバイトができないというわけです。しかし、高等学校に入る直前に読んだのがアインシュタイン(アルベルト・アインシュタイン、Albert Einstein)とインフェルト(レオポルト・インフェルト、Leopold Infeld)の「物理学はいかに創られたか」というので、理論物理のおもしろさがわかったんです。だから中学校の4年ぐらいから、まあ実験にも興味があったけど理論物理の面白さを知ったんですね。しかも1949年は湯川先生のノーベル賞があったんですよ。これはやっぱり理論物理をやろうかというので中学校の4年生に決めて、武蔵高校で3年間は理論物理を中心に勉強をして3年目に湯川先生がノーベル賞をもらったからいよいよ理論物理学できまりだなとなったわけです。というわけでその頃から湯川・朝永という名前はよく聞かされていたんですね。湯川・朝永の弟子になろうと。

 それで大学に入ってアルバイトをしながらもなんとか勉強して、そしたら大学3年の時にやった研究が当たったんだよ。結構いい結果がでたんだ。それでそれを始めて物理学会で発表したのが大学を卒業した年(1953年)だけれども、その年に大学院に入った直後に日本全体の物理学会が京都大学であって、我々の分野の会議が行われたのです。湯川先生の湯川ホールでそこで始めて私が発表するわけだよ。それで湯川先生、朝永先生がおられるというと、これは大変となるわけですよ。その中で発表するから。そうするとラッキーなことがあって、卒業した1953年には湯川先生のホールに行くことができたんだけれども、その年に国際会議があったのよ。日本で初めての理論物理国際学会があって、湯川先生が中心になっていたんですよ。そこにファインマンとかウィーグナーとかそういう連中が来てね。しかも大学院の学生の我々が引っ張り出されて京都の案内をしろって言うんだよ。そういうことで、ウィーグナー大先生を連れて「どこに行きたいんですか?」とか言ってね、そういうことがあってそれが非常に良い刺激になったんだよ。それでね湯川先生に頭が上がらないのは、世界で始めて共同利用研究所を作ったことなんだよ。これはもっと京都大学が顕彰しなければいけないんだよね。要するに日本の物理学や自然科学が発達した最大の要因が湯川先生による共同利用研究所なのよ。じゃあなぜ共同利用研究所が作られたかというと、湯川先生も朝永先生も世界中の研究者が集まるコペンハーゲンの活躍の話を聞いておられて、そして湯川先生の偉さは、京大や東大という枠をなくしたんですよ。要するにどこの大学でもどこの研究所であってもそこの研究者がしっかりしていれば京都の基礎物理学研究所にきて研究していいと。旅費と滞在費を出すと。これが当時としてはものすごく画期的だったんです。それでわたしは3ヶ月ぐらいそこで研究するのよ。

京都大学基礎物理学研究所(1954年撮影、京都大学大学文書館所蔵)
湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞を記念して1952年に建てられた湯川記念館が前身。1953年、基礎物理学研究所(RIFP, Research Institute for Fundamental Physics)に。



有馬 その時に原子核の磁石の性質に興味を持っていて、はっと気づいたのは、要するに鉛の208という非常にきちっとした堅い原子核があってそこにプロトンがつくとプロトンがお月様のように鉛の周りを回り始めるんだけれど、その時に陽子の持っているマグネティックモーメント(磁気モーメント)とまったくフリーな陽子のマグネティックモーメントはぜんぜん違うということが分かっていて、でもそれは当時のスタンダードモデルでは説明できなかったんです。当時のスタンダードモデルは鉛の208という原子核は82個の陽子と126個の中性子があって、完全に閉殻で大変安定な構造なんだから、その周りに陽子が一つぐらい付いたって、あるいは中性子が一つ付いたって、その陽子のもっている電磁気的な性質は変わらないと考えられていたんです。だから簡単に計算して回っている陽子の角運動量は5エイチ・バー(※1)です。それで決まってしまうはずだったんです。ところがそうやって簡単に計算した磁気モーメントと実験値はかなり違ったわけだよ。それでそのうちに、一つ粒子がまわれば全体の粒子が作る平均場だけじゃなくて、非常に近距離に作用する残留力があるから、陽子が回ればさざ波が立つだろうと。そのさざ波も単純なものではなくて、スピンが上向きの場合と下の場合で違うはずだと。要するにスピンとスピンの間の力があるということに気がついて、それをやってみようというのでね。今になるとコペンハーゲンの人たちがコアポアラリーゼーションという理論を言っている現象に気が付いたのです。それが1953年だから、私が23歳の時ですね。その研究を湯川研でやったのよ。湯川研究所の真ん中にストーブがあって、冬になるとお湯を沸かしてパンを焼いて食べたりしました。そういうところに3ヶ月、湯川、朝永、坂田などの大先生がみんな次から次に我々を指導してくださるわけよ。あの環境はよかったですね。それが終わってから東大に戻って東京でまとめるんだけど、できあがった頃に「何を研究したんだ」って言って湯川・朝永両先生がわれわれを集めて話を聞いてくださるわけだよ。「わたしはこんなことを研究しました」と言ったら「なんじゃいそりゃー」とかでね。それで同じ研究を助手の堀江さん(※2)とその後3年間東大で続けました。1956年に原子核研究所に就職して、そこは湯川先生と一緒に大阪で仕事をしていた菊池正士先生がもどられて所長をしておられた。そこの助手を雇うって言うので公募したら審査委員長が朝永先生で、また磁気モーメントの研究に対して質問されました。そこで要するに多粒子系になると平均磁場の揺らぎが生じてそれは繰り込まないといけないと。朝永先生の繰り込み理論の応用ですよと言ったのです。それで助手に採用されたんだよ。それで湯川先生、朝永先生ってなるとほんとうに頭が上がらないんだよ。

※1 エイチ・バー 換算プランク定数 プランク定数hを 2πで割った値
※2 堀江久 東京工業大学名誉教授

澤田 当時の原子核理論の世界では先生の指導者みたいなひとはいなかったんですか?

有馬 もちろんね、山内恭彦先生が私の大先生で、尊敬していて私の人生において最も重要な人物は、山内恭彦、湯川秀樹、朝永振一郎、この三人の先生が私の物理を徹底的につくった。山内先生からは群論をしっかりたたき込まれました。さらに伸ばしてくれたのがウィーグナーですよ。ウィーグナーの仕事をずっと追いかけていたから、彼の仕事の広さ、いろんな事に応用していくという考え方を尊敬していたから37, 8と2年間ウィーグナーさんのところにプリンストンに研究員として行くわけよ。ウィーグナーの直接の指導ではないけどいろんな事で丁寧に指導してくれたんだよ。ともかく広くやれと。難しい問題と易しい問題を一緒にやれと。難しい問題ばっかりやっているとアインシュタインみたいに論文書かなくなるからね。彼らは仲良かったんですよ。私がいったときはアインシュタインは亡くなっていたけども、「ウィーグナーみたいな人がこんなモノを研究するんですか?」なんて言う人がいたから当たり前だって答えるのです。簡単な問題もやるんだよって。同時に非常に難しい問題もやれと。だからやっぱり易しい問題もやりながら本質的な問題もやれと今も良く言っています。これは私にとって非常に役に立ったね。

山内恭彦教授(昭34.10~36.10、東京大学理学系研究科長・理学部長)


和田 ウィーグナーがノーベル賞もらったのは63年ですよね。

有馬 そうです。私がウィーグナー先生に初めて会って、先斗町でウナギを食わせようとして彼が食べなくてびっくりしたことがあるんだけどそれが53年で、その頃からウィーグナーのシェルモデルってのが確立されていて、山内先生は山内シンボルという数学的な方法を見つけたりしてウィーグナーととても仲が良かったんです。それで山内の弟子かと言って可愛がってくれたんです。そしてしかもウィーグナー先生が原子核のスピンオービット力をランサー力のセカンドオーダーの振動計算をして求めるというのをやっていて、私もそれを徹底的にやっていたのよ。ウィーグナーがやったことを徹底的に結論付けたのは私と寺沢さんなんだよ。それをすごく評価してくれたんです。大学院の学生の終わり頃からウィーグナーの仕事に着目して仕事して、一方で磁気モーメントのうまい説明を見つけたりしていたんです。アメリカにその頃日本人が行っていて、その人にも手紙を書いて「アメリカに就職したい」と言ったら「博士もっていますか?ないと月給500ドル、あると800ドル」と。えらい違いですよ。それでこれは博士をもらわないといけないと思って、ちょうど大学院を辞めて5年も経ってて、これはいけないとと思って論文を書いたら山内先生がこれなら博士いいよと言ってくださって博士になりました。その頃、旧制の博士を5年目に取ったのは珍しいくらいでした。そしたら途端にコペンハーゲンとアルゴンヌ両方から手紙が来て 来いといってね。

和田 そこに行く前に、山内先生が指導教官だったんですよね?そうするとその時に有馬先生としてどういうふうに指導されたのかなと。

有馬 山内先生は基本的に物理数学者でした。要するに群論的な対称性というのを非常に大切にした方なんですね。

和田 山内先生は一般式を書いたんですか?

有馬 そうです。原子の構造をよく調べておられて、その群論的な計算の仕方に山内表現というものを創られたのです。そういうことがあって原子核の研究も群論でやれるだろうと言ってくれたのが山内先生ですね。山内先生もウィーグナーと同じで、本来は原子核の核構造の発見者の一人なんですよ。しかし、認められなかったわけですよ。実はニールス・ボーアが日本に来た時、山内先生がウィーグナーの殻模型とおなじような話をしたら、ボーアが原子核は液滴のようなもんで殻模型は成り立たないと反対したんだそうです。それぐらい群論をやって、その群論を使ったのが私の「相互作用するボゾンモデル」という原子核の構造論です。この図の左が実験で右が理論です。相互作用するボゾンモデルは群論の応用ですね。それの元になるのが山内先生から学んだことなんですね。

真鍋 そうすると例えば日頃、そういう研究にあたって、僕なんかは実験系の研究室出身なので、例えば研究テーマをどう決めるとかというのは…。

有馬 まったく自由だった。山内先生はほんとうに自由にさせてくれて、ただしサボっていたら文句は言われましたよ。

真鍋 そのチェックはどのようにされていたんですか?毎日研究室にいらっしゃるんですか?

有馬 一緒に論文を読んだりとか、セミナーをやったりとか。とくに一番ありがたかったのは 自分が群論の大家だったから群論の本を一緒に読んでくださったんですよ。そういう意味では大変勉強になりましたね。物理そのものの現象論的な事に関してはあまりどれがいいとかわるいとか言ってくれなかった。先生はファンダメンタリストだね、やっぱり。そういう意味で磁気モーメントがどうのこうのというのは、「おもしろいね」というようなことを言ってくださったけど、それは現象論みたいなもんだから本質的にその次に何をやるかなと言うようなことを言っておられたんです。典型的に弟子のやることをだまって見ててくれて、それで自由にやらせてくれて、ときどきこれは面白いとか、これはダメだとかいうふうに言ってくださって、それはありがたかったですね。それからもう一つ温情を感じたことがあって、一つは私が昼になると研究をほったらかして寝ていたんですよ、それを二回ぐらいご覧になったらしいんですけど、そしたら堀江助手に、「有馬がくたびれているようだから気をつけてやってくれ」と言ってくださったんですよ。本人には言わないんですよ。あれは非常にありがたかったですね。山内先生が心配していたよ、と堀江さんが後から教えてくれたんですけどね。そういうような先生は今はいないね。だからそれはほんとうに山内、湯川、朝永先生たちはありがたいね。朝永先生は、さっき言った原子核研究所の助手になった頃だよ、「やっと採用されました」と言ったら、「おい私は今から東京に行くから一緒にこい」というので、ずっと東京まで車で一緒に行ったんです。「きみね、若いうちに大きな夢を見ておけよ」とね。「今は無理でも40歳ぐらいになったらできることもあるんだ。」ってね。だから私は若い人たちに講演するときにね、未だに「若いうちに大きな夢を見よう」というんです。ああいう師弟関係というのはもうないよね。自分がやってもなかなか上手くいかないね。

澤田 有馬先生、ご自身の時はテーマを決めるのとかも弟子には自由にされていたんですか?

有馬 自由にしていましたね。ただ一緒に議論しながらやりましたね。まったく自由に「何やりたい?」って聞いてこれがやりたいとなったら、じゃあそれやろうよという感じでそれでいくつかおもしろい仕事が出てるんですよね。だけど弟子のほうができるんですよね。よくできるのがいっぱいでな。一人二人どうしようもないのがいたけど、何やってんだーとか言ってね、まあでもだいたいよくやっていましたよ。一番面白かったのは堀内君の時代だよ。共闘系と共産党系と喧嘩するわけだよ。それでそれぞれ一人ずつ連れてきてみんな同じテーマで議論するわけです。だからそういう時代もあったけどね。でも要するにわたしは総長になるまでやってたことはね、昼飯は必ず学生と一緒に食べる。生協の食堂とかね。紛争時代だろうとなかろうとね。だけどそれが習慣になってて、総長になってからはなくなったけど、それまでは必ず大学院の学生を誘っていましたね。それで私の部屋は開けっ放しで、真ん中にコーヒーポットが置いてあっていつでも誰でも来て良いと。そういう開けっ放しの研究室だったんです。当時はまだドアを開けっ放しという研究室は少なかったんですね。アメリカがそういう開けっ放しの風習があるので、それを日本に持ち込んだ一人ですね。でもねともかく湯川、朝永、坂田さんとかああいう一流の人と自由に話し合える、今はなんか怖がっちゃって話さないようなところがあって、私の弟子の弟子を見ていてもやっぱりちょっとそういうところがあるんですね。だからやっぱりああいう自由な雰囲気で自由に討論ができるというのは良いねえ。


対談日:2018/9/3
対談場所:武蔵学園大学
インタビュアー:和田 隆宏、澤田 哲生、古徳 純一、坂東 昌子
音声書き起こし:澤田 哲生、角山 雄一

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