放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(有馬朗人先生)

有馬朗人先生へのインタビュー 第1回 (2/2)

原子力とのそもそもの関わりは

澤田 次の話題に移ります。では次に坂東さんがここ最近、有馬先生と原子力との関わり合いに関心を持っておられるとのことで、口火を切っていただけますか。

坂東 有馬先生の本を読んで、有馬先生は原子力について大昔からかかわってこられたのですね。

有馬 そうそう、石川島播磨とかね、それから安宅(産業)でずっと話をしたんですよ。でも安宅は潰れてしまったんですけどね。

坂東 そのころ日本でも原子力発電について、ずいぶん議論があったわけですよね。日本では、当時原子力発電の導入については、ちょうどビキニ事件(※)の後で3度目の被ばく経験をした国という状況でしたから。放射線の影響についても議論が盛んでした。先生はその頃からそういうとこでやってらしたとは知りませんでした。

※ ビキニ事件 1954年3月1日、静岡県のマグロ漁船「第五福竜丸」がビキニ環礁周辺で操業中、米国の水爆実験に巻き込まれた。


有馬 それで映画を作ったんですよ。あれは私がアメリカに行く直前に作ったんだから1958年頃かな。

映画「原子と原子力」(1959年、日本原子核研究所企画・監修、東映教育映画部製作)


坂東 私が不思議なのは、例えば素粒子論の研究グループを見ていると、学術会議でも朝永委員会(日本学術会議・物理学研究連絡委員会)の流れの中で1950年代の早い頃に「原子力には我々は関与しない。」というようなことが決まりましたよね。原子力は応用で私たちには関係ないと言うわけですね。そういう雰囲気の中で育ったのに、有馬先生はその頃から積極的にそういう所でしっかり話されておられる。そういう先生もいるんだな、と感心しました。

有馬 だってさ、中村誠太郎が「ついに太陽をとらえた」(「ついに太陽をとらえた―原子力は人を幸福にするか」中村誠太郎校閲、読売新聞社編、1954年)とか書いて儲けていたころだよ。だから太陽が水素の核融合だという話をしていたからね。やっぱりね国民にそういうことを知らせなければいけないし、それから原子炉を作るのは裏側にはプルトニウム爆弾を作るという目的があってそれではダメだよということをね国民に知らせるべきです。だから健全に原子力を使うにはどうしたら良いかというのは、若い内にみんなに知らせる義務があると思ったわけよ。

 そして私は、アメリカに1959年に最初に行って(1959年9月より米国アルゴンヌ国立研究所研究員)、その後ずっと何回も行き来していますが、向こうの物理学者に会うたびに、「なぜ君たちは日本に原子爆弾を落としたのか。」という話をしたんです。一番徹底的に議論したのは昼飯を食いながら3時間、ウィグナー(ユージン・ポール・ウィグナー, Eugene Paul Wigner)、テラー(エドワード・テラー, Edward Teller)で。私はウィグナーと非常に親しくて、一緒に研究をしていたこともあってね。もともとウィグナー先生と出会ったのは京都の基礎物理学研究所で、ウィグナーとかヤン(楊振寧)とかファインマン(Richard Phillips Feynman)とかが日本の湯川先生のご意向で1953年に湯川ホールに来たんです。湯川ホールについて、湯川さんの偉いところは、敗戦国で貧しい日本では若者を育てるしかないということで、京都大学だけで利用するべきではないと。それで偉いのは共同利用をする研究所という概念を作ったのは湯川先生なんです。そしてわれわれも呼ばれて行くわけだけど、私は1953年に東大を卒業して湯川研に出入りするんだけど、最初の物理学会が湯川ホールで行われて、そこから始まって1953年の8月か9月に理論物理学の国際会が基礎物理学研究所で開催されたのです。1953年という年は日本にとって非常に重要な年で、一つは湯川先生の共同利用研究所が非常に活発に動き始めたこと、それを象徴して国際理論物理学会を行ったんです。そこにヤン、ファインマン、ウィグナーが来ていた。そこで私はウィグナーのおつきあいをさせられるわけですよ。そこで先斗町に連れて行ってウナギ屋に入ったら、彼がびっくりして食べられなかったんです。ユダヤ人は鱗のある魚はいいらしいんです。しかし鱗のないウナギや貝はダメなのです。ともかくウィグナーが原子爆弾をつくるのに貢献した話だとかを聞いて、原子力に対する考えは私と真逆でね、そこから議論を始めていたんですよ。それでそれが一番激しくなったのが1967年で、よく昼飯を一緒に食べていたからその時に、ウィグナーが私の部屋に来て、「今日はエドワード・テラーがくるよ」と言ったんです。なぜかというと、テラーのしていたβ崩壊の研究を私もしていたから、「おまえのよく知っているテラーが来たぞ」ってことで、テラーも喜んでね、私も物理の話をしていたんですよ。物理の話をしているうちはいいんですけど、原子爆弾の話になった。私は原子爆弾を作ったことに関しては非難しない。どこの国もやっていたからね。そのために原子炉を作ったことも結構だと。しかし原子爆弾を使った時期がまずかったと私は非難したのです。なぜならばもともとナチスに対する恨みがあって、それはわかるんですよ。しかし広島と長崎に原爆を投下したのはナチスが滅んだ後でしょうと。日本はもう負けることがハッキリしていて、ソビエトを通じて負ける準備までしていたわけですよ。なのになぜその時期に爆弾を落としたのかと。それを二人にぶつけたわけですよ。

Wigner  Teller

左:Eugene Paul Wigner(1902-1995)ハンガリー出身の物理学者
1963年「原子核と素粒子の理論における対称性の発見」によりノーベル物理学賞受賞
右:Edward Teller(1908-2003)ハンガリー生まれ、米国に亡命した理論物理学者。
米国の「水爆の父」として知られる。


坂東 よくそこまで言えましたね。私もひとにズケズケなんでも聞くタイプですけど、そこまではよう言えなかったでしょうね。

有馬 だから私はその頃も、しょっちゅう国際会議なんかに行ってはその話をしていたんですよ。

坂東 びっくりしますね。だってアメリカ物理学会に行って、私が丁度マンハッタン計画と女性研究者というのでセッションがあったんですけど、日本人なら後ろめたい気持ちがあるように思っていたのですが、みんなもう「ものすごく良い時代だった」っていうのです。マンハッタン計画は誇りに思っていても、決して武器製造に加わったという罪意識はない。なんの暗さも持っていないんですよ。

有馬 マンハッタン計画自体はやむを得ないと。そもそもマンハッタン計画が始まるのはマイトナー(リーゼ・マイトナー、 Lise Meitner)がオットー(オットー・ハーン、Otto Hahn)と一緒にウラニウムにニュートロンぶつけた実験に遡ります。もっとも、もともとの彼女たちの目的は、ウラニウムを超えた原子核を作るとことだったんです。ところが核分裂という現象を発見してしまうことになった。そして色々紆余曲折があって、結局マイトナーはナチスに追い出されてね。

坂東 しかしマイトナーが他と違ったのは原爆製造に関与することを拒否した点ですね。

有馬 そうですね。ともかくその情報をニールス・ボーア(ニールス・ヘンリク・ダヴィド・ボーア、Niels Henrik David Bohr)に伝えたのです。ボーアは2週間船に乗ってその核分裂の情報をもっていってアインシュタインを説得するわけですね。そのときにウィグナーも手伝っているんです。おなじプリンストンにいたから。だからマンハッタン計画を私は否定しない。原爆に繋がったのは確かだけれども、その前にいろいろ原子核の構造の研究も入っているしね。そういうことは世界中でやっていたことだから否定しない。しかし利用の仕方に問題があったんです。しかも広島はまだ軍港のそばだから理由があるにしてもなぜ長崎に落とす必要があったかとね。

坂東 あのころ科学者は、どこか別のところでやって「こんなに怖い物やから早く降伏しなさい」というふうに説得すべきだと思って提言までしたんですよね。

有馬 だからそれはね、科学者の良心というモノがあるだろうと言いたいわけですよ。それは今の時代にも通ずるものであってね、今も世界中で爆弾作ったりプルトニウム溜めたりしているわけですよ。私は今の日本の原子力事情で一番心配なのは、プルトニウムですよ。プルトニウムはあげてしまえと。こんどイギリスに少しあげたんですよ。お金を付けるんですよ。それで私は経済産業省に、フランスにもっとあげてしまえと言ったんです。プルトニウムをあげて最も喜ぶのはロシアですよ。なぜかというとロシアは〝もんじゅ〟型の高速炉(※)BN-800が大成功しているからね。発電して儲けているんです。次はBN-1200を作るらしい。だからその1200の燃料が要るでしょうと言ってあげれば喜ぶよそれは。

※〝もんじゅ〟型の高速炉 高速増殖炉のこと。高速増殖炉は高速中性子とプルトニウムを含むMOX燃料を使用する。


東大総長になったのはそもそも・・・

澤田 先生の研究者時代、若い頃、アメリカでノーベル賞学者と対峙していらした。その話もあまり知られていないですよね。原子核の和田さんにしろ、あまりその辺の話はご存知なかったかもしれない。
 ところで、有馬先生が物理学者の範疇を超えて、行政にいかれましたよね。総長から文部大臣。なぜそちらの方向に行かれたのかなという疑問を私は常日頃坂東さんや和田さんより伺っています。

有馬 あのね、総長になったのは仕方ないよね。やはり大学にいて教育をよくしようと思っていたからね。最初の出発点は研究しながら「いかに日本が貧しいか」ということを思っていて、最初に作ったのは計算センターです。東大に大型計算センターというのができるわけだよね。それを湯川先生の真似をして共同利用にしたんです。東大の大型計算センターができたのは同級生の後藤英一くん(パラメトロンの発明者)と私とあと何人か若手でやったのよ。私はアメリカでいかに素晴らしい計算ができる機械があるのかと言うことを知ったからね。そこで武谷三男さんと喧嘩することになったんです。私と武谷さんの対立は、京都に置くか東京に置くかというところなんです。京都の基礎物理学研究所でも大型の計算機を入れる予定があったんです。それは物理学の研究者で共同利用すると。私の方はもっとスケールが大きくて、東大でつくって全ての研究者が利用できるようにすると。そこで武谷三男さんが「なぜ東大が共同利用にするのか、おまえらにできるわけがない」と言ったんです。

坂東 なんかえらい東大嫌いやったみたいですね。素粒子論グループで、小沼さんがいたんですけど「おまえ東大やからそんなんできひんだろう」とか言うてね。

有馬 それで私がね「善意でやります!」と答えたらね、「善意がなにかわかるのか。馬が人間をかむのは善意だということを知っているか。」と言われたんです。それで喧嘩別れしたんですけど、武谷さんの良かったところは、その会議の直後、東京への移動中に武谷さんに会ったんだけれども、「おーい、一緒に飯を食おう」なんて言ってね、共同利用がいいよなとかいう話をしたりしてね。最後は仲良かったんですよ。結局東大が全国共同利用で全大学で開放するというので権利をとったんです。その時に今度は、IBMをとるかアメリカのCDCをとるか日本のマシンを取るかで大論争になって、私は当時CDCを押していたけれども少数派で、5対5ぐらいで票が分かれたときに委員長だった小谷正雄先生がCDC派だったんで中立が保たれたんです。それで結局永遠に決まらずにいたから、私がもう国産にしましょうと言って、国産の良さは日本の科学技術を進める事になるからと言うのでCDCを降りて日立を取りましょうと。それで非常に良かったのは、東大が日立、京都が富士通、東北が日電、この三社が猛烈に競争して最後に日電の地球シミュレーターになって、それが1990年頃は世界で一番良かったんです。そのころ何が起こったか。中曽根康弘氏が総理大臣で、「Buy American」って言い出したんです。それで1990年ごろから「Buy American」が始まって、日本の工業が傲慢になったんだよね。それでも科学技術はわりと良くてそのころから非常に科研費が伸び始めたのです。研究費を増やそうと、橋本内閣のときに加藤紘一さんらが頑張ってくれて、科学技術基本法が1995年に立法したんです。それに基づいて5年ごとに科学技術計画が作られ、研究費も増大し、大学の教育・研究施設も大いに改善し、それで日本の研究力がぐっと伸びたんですよ。それが2005年までよ。

澤田 ところで、なぜそもそも東大総長になられたんですか。物理学者の間では有馬さんは権力志向が強いという風に誤解されているようですが(笑)。

有馬 それは心外ですね。そもそもなんで東大総長になったのかというと、大型計算機センター(※)を作ろうとか言って学内をかけずり回ったりして他の学部の教授や助教授といろんなことができるようになっていたんです。それでそのうちに、1980年に50才になったときに大型計算機センター長になって、それで日本物理学会会長になるわけね。

※ 東京大学大型計算機センター 1965年4月に全国共同利用施設として設置 現在の情報基盤センター


 そのずっと前、1968年にアメリカにいたんです(1967年からラトガース大学客員教授)。その年イタリアのトリエステに理論物理学センターが創立されて、それを記念して理論物理国際会議があってハイゼンベルグ(ヴェルナー・カール・ハイゼンベルク、Werner Karl Heisenberg)とかディラック(ポール・エイドリアン・モーリス・ディラック、Paul Adrien Maurice Dirac)とか偉い人がいっぱい来て話をしたんです。それでそこにね福田ヘルツ(福田信之)がやって来て、「おまえはなぜこんな所にいるんだ、東大がどうなっているのか知っているのか」と言うんですよ。大学紛争が起こっている時でしたからね。そろそろ帰らないといけないかなあとは思っていたんですけどね。それでしょうがないから1968年の暮れに日本に帰ったんです。

 それで現に私の研究室に行くと、共闘派とノンポリと民青(日本民主青年同盟)が喧嘩しているわけです。そこでそんなことしてたらダメだということで、一緒に勉強させてね。それがね1969年の1月ですよ。いよいよね、物理教室も占拠されてしまって、仕方ないから我々は他の生物学科かなんかのところに疎開したんですよ。それでその前後に教授会で、歳のいった先生は偉くてね、学生と話をすると言うんですよ。それで小柴昌俊さんと私が「そんなヘルメットかぶって石投げるやつと話し合いしたって無理だよ」とね。警察とかを使うべきだと言ったんです。そしたらまだその頃は加藤一郎先生が総長代行だったんです。それが正式に総長になるわけです。その直前に、どこに総長室があったかというと東大の中になかったんですよ。神田の学士会館の地下室にあったんです。そこから電話があって「有馬くん来い」と。そこで行ったら「補佐になれ」と言われて、冗談じゃ無いと思いましたね。そしたらアメリカでのんびり研究していた罰だからおれを手伝えというわけですよね。それが大学行政に入る最初ですよ。それで毎日学士会館に行って、午前中はゲバ棒どうしましょうとか、学生と会談するからついて行くとかね。学内行政というモノをその時始めて知るわけです。評議会があってそこで全てが決まると言うことも知らなかったんです。なんでそもそも補佐会議を作るかというと、それまで総長は評議会しか議論するところがなかったんですよ。そこは各学部研究所の代表者の集まりだから自分たちのことばかり考えて、全学のことを考えられないと。だから補佐会議で全学のことを考えて議論したいというわけです。それでしょっちゅう総長、特別補佐二人と若手の補佐が集まって、そういう相談をさせられるのです。かれこれ2年ほどやっていたのですが、アメリカから来いと言われたので加藤総長の補佐を辞めて、またアメリカに亡命したんですよ(1971年~1973年、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校教授)。
Gakushikaikan 1

東京大学弥生キャンパスから車で10分ほど離れたところにある学士会館(東京都千代田区神田錦町3-28)

 これでまたゆっくり研究ができると思ったら、驚いたことに着いて早々の人間をすぐに教育に使うわけよ。いくつかそこで勉強したことは、自分の専門ではないことを教えなければいけない。大学院の教員として行っているわけだから原子核構造とか素粒子論を教えるべきところを、統計力学を教えろというわけです。それは知らないわけではないけど、どうしてだと言うと、要するに教養教育は専門の範囲の中で得意な所だけではなくて広く物理全体を教えるんだと。今回は統計力学だと。それが一つ驚いたこと。しかも100人のクラスで3クラスにわけるわけよ。そして私を含めた三人の教員でそれぞれのクラスを担当する。教える相手は英語がべらぼうに上手くてね、まったく英語ですらうまく話せるか分からない私が、英語ネイティブの他の先生2人と同じようにクラスを持つわけです。それが驚きましたね。もう一つは必ず宿題をだすところですね。その採点は自分がやることもあったり、大学院の学生が手伝ってくれたりするんです。しかしほんとうに徹底的に宿題をだすんです。日本の高等学校以上でしたよ。

坂東 むこうに行くと、ピアノなんかをやっていた子どもが「大学に行って忙しくなったのでできなくなりました。」とよく言うんですよ。

有馬 それで驚いたんです。それでしょっちゅう宿題をだして採点をして返す。そうして授業が最後になったときに何が起こったか、チェアマンが私に茶封筒を渡して「この中身を見ずに学生の誰かにこれを渡せ」というんです。それで学生に渡して何が入っているのか聞いたら、学生による教員の評価ですよ。びっくりしました。その評価がね、今度は食堂に貼り出されているんですよ。公開ですよ。それで見てみたらね、「英語はそれほど十分ではないけれど、非常によく準備して丁寧にやっている」とあったんです。そしたら給料が上がったんですよ。もう一つびっくりしたのはね、着任早々4月にパリに行って大きな原子核の国際会議があって、そこでキーノートスピーカーとして話せと言われたわけですよ。光栄なわけです。それでね、チェアマンにこういう所に招待されたから行かせてくれと言ったら、「No、おまえは教育者だから、教育者として雇っているのだから行ってはいけない」と言われたんです。どうしたらいいのかと聞くと、代行を立てるか、帰ってきてから補講をするかどちらかだと言うんです。だったら補講するよってことで行かせてもらったんです。徹底的な教育主義なんですね。そういう点でアメリカの大学の良さは、1年生2年生あたりで徹底的に非常に専門的なところを代表的な研究者がしっかりと教育するというわけです。日本では教養教育というともう年取ったようなひとで何やっているのかよく分からない人を呼んでやっていたというようなことがありましたからね。そうじゃなくて徹底的に現役でしかもかなり仕事をしている人が教養教育にあたるわけです。そこが驚きでしたね。

 日本の大学もこういうふうにきちっと教養教育をすべきだと思ってね、それで帰ってきて(1975年から東京大学理学部教授)何をしたかというと、授業計画をしっかり書かせて、社会活動でどんな活動しているのかをしっかり見るというようにしたんです。しかし東大はすでにそういうふうにしていたんですけどね。それから宿題を出そうとか、本を読まそうとかね、余計なことを言ったもんだから、そのうち理学部長になってしまうんですよ。理学部長になった後こんどは1989年に東大総長になり、そのときにも反対が出たわけですよ。論文の数を数えろとか、評価しろとか、教員の評価をきちっとしろとか、大学院をもっと強くしろとか私は言っていたからね、「有馬がやると何をするかわからない」という意見があったんです。それでもまあ総長になるわけです。そのころにもう一つあったのは、理学部長時代からずっと言っていたのは、「国立大学なり大学ってのは産業界に比べてずいぶん効率がわるいとか論文が少ないとか言われてるけど、それは大嘘だ」と。大学や国立研究所がずいぶん論文を書いて活躍しいるんだということを定量的に計算機を使って評価をしたんです。どの論文の引用数が多いかまで調べたんです。大変だったんです。それで日本の大学は頑張っている、それにしては研究費があまりにも少ないということを言っていたのです。具体的には、当時の科研費は530億円ぐらいあったんですけど、そこで日立や東芝はどのくらいかというと4,000億円くらいなんです。一社でもって8倍も使っているんだよ。日本中の国公私立の教員が全部集まっても科研費は五百数十億しかないのに一社で4,000億円というのはどういうことだってね。それで「大学貧乏物語」を書いたのです。その時に私は国立大学で威張るなと。公立も私学も視野に入れようと。それで何をしたかというと早稲田に行ったんです。早稲田の総長と一緒にやる。それで次は慶応に行って石川忠雄塾長にも協力をお願いしました。それで特に早稲田の西原春夫総長という人が一緒にやってくれて。早稲田の総長というのは凄いんです。早稲田からは何人もの総理大臣が輩出されているからものすごい力を持っているんです。それで非常にいろんな政治家の所に連れて行ってもらって、いかに大学が困っているか、私学も公立も国立も困っていると訴えたのです。そういうことをやって、科学技術基本法ができて科学技術基本計画ができて、研究費がもらえて、科研費は2,300億くらいになりましたよね。
 ところで西原先生の90才のお祝いがこの前あって行ったけど、元総理大臣がたくさんいたよ。しかも歴代の早大総長が全部いるんだよ。

「大学貧乏物語」有馬朗人著、1996年、東京大学出版会


澤田 ここまででまだ話題にしていない項目として、文科大臣時代のこと、JCO事故、3.11、幼少時代、などですが、それは第二回目に譲りたいと思います。この際せっかくですので一人ずつここまでのご感想をいただきましょうか。

和田 やはり私は委員会のことに一番興味がありまして、今日は食品会社のことなど非常にいいヒントをいただけて嬉しいです。

真鍋 京都の放射線の国際会議でお話しされているのをみかけまして、放射線の影響も昔から興味をもって調べておられたんですか?

有馬 要するになぜそういうことに興味を持っているのかというと、中学や高校の教員に対して講演することが多いからなんですよね。理科の先生たちにね。理科の先生たちにどういう風に放射線を教えたら良いかということを言ってあげないとね、彼ら自身が放射線教育を受けていないから。そういう意味で、放射線の効用とか問題点とかを彼らによく話すんです。それから一般の人たちにもね。そういうことがあって放射線について自分でも研究したんです。
 それと、原子力利用は女性の方に反対派が多いんですよね。それで何というか、「原子力は女性が作ったんだよ」って言うんです。そもそも放射能というのはだれが発明したかというと、一番影響力を与えたのはマリー・キュリー(Marie Curie)であるとね。それから核分裂の発見はマイトナーだよと。それから原子核構造で一番大きな理論を発見したのはゲッパート・メイヤー(マリア・ゲッパート=メイヤー、Maria Goeppert-Mayer)だしね。「女性が原子核物理学というのを作ったんだぞ!」というとみんな「へぇ!?」と言って驚くんですよ。まあそういうやや冗談めかした話も含めてね。

古徳 僕はですね、先生がお作りなった大型計算機センターをまさに使わせていただいているんですけれども、非常に役に立っております。有馬先生が研究者としてどのようなことを考えながら研究を進められたかというのを次の機会にでもお聞きしたいなと思いました。

坂東 私はやはり分野を横断していろんな研究者と付き合ったり、分野を広げてこられたこと。特にウィグナー先生の影響が大きいと思うのですが、狭い専門領域に留まることなく、広範な活動はどういうふうに広げて行かれたのかとても興味があります。

有馬 好奇心ですよ。最近は中国の方とばかり研究をしているんです。今私は中国の原子核物理学の親になっているんです。でもそんなことよりね、今一番こっているのは、寝転がりながら読める本だよね。本です。面白いことがあって、神話で黄泉国の話があってね、日本にもギリシャにも同じような話があって、ともかく似たような神話が多いんですよ。それでなぜかというところで最近分かってきたのが、遺伝子なんです。遺伝子技術が進んだことによって、人類がどこからどのようにして動いてきたのか。アフリカから始まってシベリアを通ってアメリカに行ったのと、南の方からインドネシアからオーストラリアに行ったという二つのパターンがあって、その流れに沿って似通った話があるとか。と言うわけで、神話がどうしてこんなに似たようなモノがあちこちにあるのかなと、その系列と遺伝子の研究によって人類がどう動いてきたかということが結びついている。このような話は科学技術の発展がいかに世の中のいろんな分野に影響しているかということの象徴だよね。放射能の研究もやっぱりいろいろな分野への応用があるだろうし、そういうことを意識的に考えていかないといけないね。ということです。

澤田 次回もよろしくお願い致します。ありがとうございました。

(第2回に続く)


対談日:2018/8/6
対談場所:武蔵学園会議室
インタビュアー:和田 隆宏、澤田 哲生、古徳 純一、真鍋 勇一郎、坂東 昌子
音声書き起こし:澤田 哲生、角山 雄一

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