放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(和田先生)

和田昭允先生へのインタビュー 後編 2/5

新しい領域ができるとき

b:わあ、楽しそうですね。

w:そしたら、生物の、生物って言っても動物教室の先生がね、「動物学の学生は、和田ゼミに出るな」って、禁足令が出た。小学校じゃあるまいし・・・。

b:ほんとですね。

w:これは、僕、ビックリしましたねぇ。

b:ほかの先生のゼミに出ていくのは、禁止されている例をいくつも聞きました。だから内緒で・・・。

w:一種の反乱なんですかね~。

b:そうなんですよね、どのゼミに出るかという選択は、若い人にとっては、ほんとに人生を決めますね。禁止令が出るようなところって、学問的にはレベルが低いところなんでしょうけど。ほかのゼミにでたら、そっちのほうが魅力的だってわかって、競争に負けると思っているのではと思いますね。

w:低いところでしょ。そうですよ。で、またね、その教室の若い連中が、もちろんそんなこと聞かないで出て来てねぇ。先生、こんなこと言われちゃった、って、全部報告してくれるんです、ハッハッハ。

b:それは面白いですねぇ。

w:うん、いや、もう先生が完全に馬鹿にされているんです。それをねぇ、また分かってないところがおかしなところで・・・・

b:で、そういう教室って、どうなりました?

w:あのね、変わりました、やっぱり、教授が変わって、これじゃだめだなと思ったんですね、それからねぇ、変わって一番いい例は、当時は植物学・動物学なんです。

b:あぁ、はい、はい、はい、生物学ではなく2つに分かれていたってことですね?

w:それで、そういうこと言っているのは動物の先生なんです。植物は割に言われてなかったんです。

b:ほぉ~、どうしてそんな違いがあるんでしょうね?

w:どうですかねぇ。

b:やっぱりゼミの教授の業績が低かったとか・・。例えば、京大の、今西錦司・・・

w:有名ですよね、えぇ、えぇ、えぇ。

b:で、そのあとも、オリジナルな人が出たんですね。伊谷純一郎と河合雅雄とか・・

w:なるほど、動物はね、ほんとに成果が上がってなかったのではないかな~、あの頃は。それで、結局、その老教授がいなくなってから、動物と植物が合体して、生物学教室になった。

b:なるほど、なるほど、それはもう、当然ですね。

w:当然なんです。でもね、禁足令引いたのには驚きましたねぇ。

b: ハッハッハ、よくそんなこといわはりましたね。

w:子どもじゃあるまいし・・・

b:でも、また、学生がそれにめげず、やってくるというのが面白いですねぇ。

w:えぇ、出てきて報告するんですよ。何て言ったかな、生物物理というのは、いかがわしい学問だと、フッフッフッ・・・

b:いや、感じ分かりますね~

w:ハッハッハッハッハッハッ。

b:あの~、私もこの分野に入ってみて、それこそ、さっきの真鍋さんが経験したことですが、クローズドシステムで、他人を仲間に入れないんです。たまに変わった人がいて真鍋さんを呼んで、素人が何を言っているのだと説教してやろうという親切な人がいたわけです。まあ、この人はまだ見込みのある科学者というべきかもしれませんが。

w:何だと思ってるんですかねぇ?

b:何なんですかねぇ・・・

w:だから、学問を何だと思ってる・・・

b:今でも、そういうの、残ってるんです。

w:へぇ~。

b:それで、私も不思議なんですけど、こんなことがありました。パスツール研には、放射線生物学の錚々たる科学者がたくさんおられます。内海先生、丹羽先生、など、また、がんの研究では有名な藤田先生、そういう方々がおられることは、3・11以後、あいんしゅたいんで、「低線量放射線の生体影響研究会」を立ち上げて、生物免疫専攻の宇野さんを通じて知り合い、いろいろとお話を聞く機会を得ました。私たちの研究会には好奇心旺盛な市民も一緒に参加していました。
それで、ある時、宇野さんが、「あいんしゅたいんの周りにクレイマーがいるんで注意するようにという忠告をうけた」というのです。いったい誰の事?と2人で一生懸命考えたのですが、思い当たりません。そして最後にわかったのが、なんと、一緒に「放射線必須データ32」を作っていた市民の方のことだったんです。私たちは、議論するときは、市民も科学者も区別なく、年齢差も気にせず対等平等でした。パスツール研究所におられた内海先生とか言った偉い先生もそれに慣れておられたのですが、市民が内海先生にいろいろお聞きするためにパスツール研究所にいって議論されたのです。その様子を見ていたパスツール研の秘書さんにはあ、市民が「先生、それおかしいのと違いますか」「どうしてですか」と詰め寄っているように見えたらしいのです。市民の人はいつも通り(というか、あいんしゅたいんで議論しているのと同じ調子で)議論していたのですが、ほかの人にはクレイマーと映ったのですね。内海先生自身は別に慣れたものだったのですが、初めての方にはびっくりだったのですね。

w:へぇ~、そうですか。これもね、面白い例なんですけどねぇ、日本学術会議では、私は第4部長してて、第4部ってのは、理学ですよねぇ。

b:はい、昔は。

w:そこにねぇ、委員会を傍聴したいという声が上がったんですよ。私はね、人間のプライバシーに関係するとかそういう場合は、ちょっと退席してもらうけども、いいよって言って、呼んだんですよ。ちょっとねぇ、確かに、政治的な話が出て混ぜ返されるので、それまで部長が断っていた。僕はね、別にね、聞かれて悪いことはないんだから、来いよって言ったら、いっぺん来てそれで終わりだったんです。もう来なかった。

b:はぁ~。

w:フッフッフッフッフッフッ。

b:あ、そうですか。慣れていないんですね。

w:ええ~、そんなもんですよ。

b:何ていうのかな~、いや、まぁ、学問は一つっていうか、科学の対象、さっきも言われましたけど、対象は何も境界がないわけですから。

w:そうです。

b:特に、物理は、別に対象が決まっているわけじゃない。

w:対象決まってない、そうです。

b:なんでもその原因や構造をはっきりさせるのが目的ですから。

w:そう、そうです。

b:何にでも挑戦するわけですよ。そりゃあ、まあ、ボーアをはじめとしてコペンハーゲン精神と呼んでもいいのですが、それが共同利用研究所という大学の枠を超えた研究組織を作り上げたのですからね。

w:そうですね、共同利用研究所を物理が立ち上げた、化学じゃできない・・・

b:そこでは、対象をどんどんどんどん広げていって、物理帝国主義とまで言われてしまったんですけど。

w:そうです、そうです。

b:あの、そういう、その学問に境界がないっていうか、まあ、そればかりでなく地球の人類みんな同じという、そういう、社会が出来ないとね、ほんとの意味の新しい学問が生まれてこないような気がするのです。

w:それはねぇ、言い換えれば、ざっくばらんな議論が出来なきゃダメなんだということですよね。

b:そうなんです、そうなんです。

w:あの~、少しくらいね、こっちが言ったことにつっかかってこなくちゃ・・・

b:やっつけられることのほうが大事なんですよね。

w:そう、そうなんです、それをね、なんか、こっちの悪口を言われたように思われたりする人がいて・・・

b:そうなんですね、そういうのをやりたがらない人達がいる・・・。

w:嫌うんですよね、そういうのをね、だけど、そんなのはね、別にこっちの人格がもう揺らぐわけでも何でもないんですから。

b:人を信用するしないじゃなくて、その、学問の内容を議論するわけですからね。よく、物理は礼儀を知らないとか言われるんですが、別にその人がどうという人かは別にして、その人の言っていることに対して、おかしいと思ったら、おかしいといっているだけなんですが。

w:そうです、それをねぇ、何か自分の人格が傷つけられたように思う場合があるよねぇ、そういう人はねぇ。

b:科学者の議論では、ほんとはそういうことあってはならないと思うんです。

w:ならないです、ならないですよ。人格はもう別ですよ、そんなことでねぇ、揺らぐような人格じゃ困るんで、フッフッフッ。

b:そうなんですよねぇ、だから、私もあの交通量やったときに、工学部の研究者と一緒に、交通量の研究会をやったんです。学会の10分講演の時は、さすがに口挟みませんけど、普通の研究会は、わからないところや、おかしいと思ったところで、途中で言わないと、最後までほったらかしでいくわけにはいきませんよね。で、みんな、ワーッと議論する。そしたら、コーヒータイムに工学部系の人から聞かれたんです。「あの、こんな風に人の講演に途中で議論を挟んだり質問したりするんですか?」って。工学部では、途中で絶対口を挟まないのが礼儀だそうです。質問、めったにしないですね。特に、講師に失礼な批判などしないんです。これはカルチャーの違いとも言えますが、どうなのでしょうね。例えば、私は、学術振興会の委員会「低線量の生体影響とクライシスコミュニケーション」で山下俊一先生が委員長、私が副委員長でした。山下先生は、放射線の影響については、チェルノブイリの調査でリーダでしたし、真っ先に甲状腺がんと放射線の関係を明らかにした方です。学問的にはもちろん、人柄も丁寧で紳士です。有名な先生なんですけど、その先生が、委員長で、私が副委員長でしたが、会議の仕方が違います。私なら議論の時間を十分に取るのですが、講演がすんでほとんど議論の時間がないようなプログラムの組み方をされて、丁寧に講師の先生に「ありがとうございました」とお礼を言われて、早く引き上げてもらっていました。私など、行儀が悪いので途中でいっぱい質問するのですが、もしほんとに伝統的な医学部の先生ならきっとへきえきされたとおもいますが、山下先生はさすがに誠実で紳士なのでそれも許してもらいましたが・・・。でも本来の、山下先生のやり方は違うのだろうと思っていました。ともかく、議論の時間は短く設定するのが普通らしいです。忙しい先生方にいつまでも付き合ってもらうのはご迷惑かとも・・・。ですから、悪気があるわけではもちろんないのです。
これはもう一つの話ですが、あるとき、東京都庁のあの建物のなかで講演したことがありました。このとき、講演が終わって「大変興味深いお話をありがとうございました。」といって終わってしまいました。会場を出て歩きながら「ここは、質問とか議論をしないのですか?」と聞いてみたら、「以前は時間を取って受け付けていたのですが、ある時、誰かが混ぜ返してややこしいことなったので、講演者に失礼だからそれ以後やめました。」ということでした。

w:失礼、エッヘッヘッ。

b:そういう雰囲気あるんですよ。

w:わかります、動物なんかそうです。

b:そうすると、議論するのに慣れてないというか、ほんとに、議論する中で、もっとさらに発展した新しい発見をするという経験がないままみんなが大人になる・・・・

w:そうです、そうですね。

b:いや~、だから、先生も苦労されたと思って・・・。

w:いゃ、まぁねぇ、動物はちょっと特別だったけど、でも、まぁ、いい経験しましたよ。


新領域の創生

b:で、結局、その、動物教室が変わったわけですよねぇ、変な話・・・。

w:動物教室が生物教室に変わったわけで、その、そういうことを言わなかった植物と一緒になったわけですからね。

b:なるほどねぇ、もう今はもう、すっかり変わったでしょうねぇ。

w:変わったと思いますねぇ。今は生命科学として統一した組織になっています。

b:でも、例の、ルイセンコミチューリンの論争があって、日本もその影響を受けていました。岡田節人さんなんかでも、はじめはだいぶそれにいかれていたみたいです。

w:岡田節人ね。懐かしいな、懐かしい名前が出てきたな、そうですか。

b:だけど、研究者は、研究を進めているうちに、だんだん、本物が見えてくるもので、イデオロギーに左右されないで判断するようになるのですね。科学というものは、そういうものですよね。そして本当の科学者は、だんだんわかってきて、どんどん変わって、実際に存在するDNAを受け入れ、古い固定概念だけにこびりついていた方々は、まぁ、消えていく。そういうのを見ていると、トキンドさん(岡田節人先生はそう呼ばれていました)は、もう、物理のその湯川精神というか、なんていうか、雰囲気をそのまま持っておられる。

w:そうですね。

b:はい、若い人にもいつも、学会で質問して来いと、そうしなければ、旅費を出してやらないと、いわれたそうです。

w:いや、全く皆さん、懐かしいですがね、関西弁丸出しでね、ハッハッハッハッハッハ。

b:面白い先生でしてたでけどねぇ、だから、その、それで、トキンドさんなんかも含めて、生物物理学教室が出来たわけなんですよね。

w:そうです、そうです。

岡田節人のエッセイ より
京都大学に入学し、やがて大学院でいわゆる研究らしきことを始めた時代(1949 ~ 50 )を歴史的に特徴づけると、まさにイデオロギーの時代だった。科学は、政治や歴史などの人文的な学問や芸術などと違って完全に客観的なものであり、イデオロギーなど無関係というのが原則だろうけれど、この時代では、科学も確かにイデオロギーのもとにあるらしい様相を呈していた。
ソ連のイデオロギーに基づく社会主義の体制のもとで、獲得形質が遺伝すると唱え 力づくで科学を動かしたのがルイセンコだった。メンデルの法則はこのイデオロギーのもとでは認可されないというのだから、これが近々半世紀前のことだったのが、まったく信じられない。日本の大学でも、遺伝学から植物生理学まで、ルイセンコ派の教官が数多くはないにしろ存在していて、彼らはいわゆる若者たちにもてていた。京大の徳田御稔の書いた『2つの遺伝学』という本はバイブル並みにもてはやされた。後年に分子生物学で名をなす山岸秀夫などは、若いころルイセンコに惚れこみ、当時社会的には花形だった工学部をやめて植物学に転科して実験したほどだ。しかし、直ちにこのルイセンコ噺(ばなし)のいかがわしさに気付いてしまったのはさすがであった。

b:当時は、物理帝国主義といわれましたね。

w:うん、テラポン(寺本英)さんとかね、頑張ったんですね。

b:そうですね、実は京都大学で玉喜玉城講演会というのがずっと続いていたのです。これは玉城先生のご遺族の方が基礎物理学研究所に寄付(実際には湯川財団)されたお金で、毎年開くことになっていて、初回に生物物理学のテラポンのお話が出ています。如何に物理学者たちが生物物理学に力を入れていたかわかりますね。

w:どんな講演会をしていますか?

b:第1回目が、湯川さん、朝永さん、そしてテラポンです。分野を横断したテーマですが、2回目は宇宙と地球。3回目が生物なんです。

w:なるほど。木村資生と渡辺格先生か。渡辺さんのお話は面白いです。東京ですね?さっき言った、水島門下です。ですから、私の同じ研究室の先輩です。

b:あ~、そうですか。いやこの人が、生物物理学は、第1フェーズから第2フェーズに入ったという話を、1970年代にしておられます。第1の分子生物学は、あのデルブリュックから始まって、第2が、ワトソン、クリックですかね。でも、実はそれとは違う系列もあるみたいな気がします。

w:ここにねぇ、寺本さんが物理学からみた生物の一面ってのがありますね。

b:そうなんです。

w:懐かしいですねぇ。

b:そこで、1回目にそれをもって来たというのは、わりに生物物理教室が出来て間もない頃なんじゃなかったかと思います。

w:これは、1969年。

b:はい

w:そうですね、69年っていうのは・・・

b:先生は、もう帰って来られていましたか?

w:67年に東大ですからね、もう、相当後ですね。

b:あの、先生が東大に移られたんが、え~っと。

w:61年か62年か、その辺重なっているんですけれども。

b:なるほど、じゃ、お茶大に5年程おられたわけですね。

w:そういうことです。小谷先生ですね。小谷先生のバックがあったから、物理教室もね、生物物理学の講座を作ったということでしょう。小谷先生は、野口先生、山内 恭彦先生と非常に仲が良かったですから。

b:山内先生ですよね?

w:えぇ、あの、物理数学の。

b:大御所ですもんねぇ、でも数学の先生が生物物理学に理解があった?!

w:大御所ですからね。

b:小谷・山内、これ、1年違いなんですけれども、親友なんです。それで、この大御所の下に中御所として流体力学で今井さん、そして久保亮五、それから、高橋秀俊っていってね、そうそうたる科学者がみんな、新しい学問としての、生物物理を応援して下さったわけですね。でなかったら、やっぱり無理でしたよ。
う~ん、やっぱり人ですね、なんか外側から枠作ってもダメですね。

w:ダメです、ダメです、人です。もう、1にも人、2にも人。

b:人ですねぇ、だって、基研だって、湯川さんがおられたから、と思いますね、で、誰でも受け入れるわけですから。

w:えぇ。

b:なるほどねぇ、いやそうか、でも先生がその繰り返しのない秩序というもので、情報という方向へ向かわれて、画期的なアイデア出されたということですね。

w:はい、はい。

b:それは、東大に移られてからですか?

w:移ってからです。相当後です。

b:というと、理学部の中での、別の講座からの批判だったわけですが、新しく今度は医学系も入って来たということですか。

w:医学系は決してネガティブではなかった、一般的にはもう、一歩離れたんですけど江橋(江橋節郎:日本の薬理学、分子生物学者)を引っぱってきたわけですよ。江橋さんってのは、医学部の中では大御所です。それに非常に物理のこともよく分かっている。だから、彼が、クッションになって・・・

b:やっぱり、そういう人がおられないとなかなか・・・

w:それは、無理です。それで、医学博士、つまり、江橋さんのお弟子である、堀田凱樹とか若林ってのを引っぱりこんだんです。

b:堀田って、あの、情報システム研究機構長の?

w:あの、総研大の、えぇ、あの堀田です。

b:なるほどねぇ、そうすると、どう考えてもやっぱり、どういう人が、やっぱり人のつながりって、偶然というか、ひょんなところから生まれるんですね。先生はその江橋先生とはどうやって?

w:あ~、それは生物物理学会です。

b:あ、生物物理学会がその前に出来ていたのですか。

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