放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

menu

研究者・専門家へのインタビュー(安斎先生)

安斎育郎先生へのインタビュー 4/6

放射線防護学者からジェネラリストへ

中尾: それでここから放射線防護研究者としての道を阻まれてしまうというのはどういう経緯があったのですか?

安斎: それは要するに金が、研究費がこなくなる。教授とその直属の草間朋子という助手、この人は偉くなって大分看護科学大学の学長になったり今もなんかそういう関係のけっこう重要な職に就いているんじゃないかな。それから国際放射線防護委員会の委員に出席するとかね。この二人がペアで支配していて、教授とその助手でコントロールしていて、中間に助教授がいたんだけどこの助教授は公衆衛生学教室に腰掛け的にきたメンバーであまりそういう議論には関わらなくて、僕なんかにも割に中立の立場で関わってくれていた方なんだけども、この二人の方針で予算配分がない。そして教育業務は一切こない。だから原子力工学かとか医学部の保健学科とかの教育を担当していた教室だけど僕には一切教育業務はさせない。

角山: つまりこれは、学会のほうはいろいろやっていたんだけど、講座の中で・・・

安斎: 理論的研究を、金がこないからやった。それで発表はできるでしょう、学会は自由だからね。だから発表していて若手の研究者なんかは、「安斎はこういう放射線防護学の中でも被ばく解析の専門家だ」という位置づけで選挙のときは支持してくれるような。それで若手研究会というのを作って勉強もやったしね、私が研究委員長かなんかになってね。

 

中尾: 保健物理協議会は今も途中で退会したとかはなくずっと会員でいらっしゃったんですか。

 

安斎: 途中で止めさせられたとかそういうことはなくて、もうある年齢になった時に何年か前に止めましたけどね。学会は誰かを追い出すようなことはできませんよ。よほど学会に不名誉なことや不法なことをやらなければ(笑)。

 

角山: 追い出すというのとは違いますけど、先日大分で開催された放射線安全管理学会と保健物理学会の合同学会のシンポジウムに参加したときに「今日は手打ちだ」って言われたんですよ。聞いた話ですが、安全管理学会は保健物理学会の一部が分裂するように組織されたという経緯があったそうで、しばらくは交流がなかったんだそうです。今回は世代交代も含めて手打ちだって聞いて、えっそんなこと学会であるんだと思って(笑)。

 

中尾: 安斎先生は、72年からでしたけど総務理事兼事務局長を数年努めて・・・

 

安斎: その後も理事長もやったけども当選順位が少し下がってきて、だんだん立命館に来るようになってフェードアウトしましたね。だから86年にもう17年も助手をやっていたそのときに、立命館大学の塩田庄兵衛という経済学部の労働問題の大家でしたけど、これが日本科学者会議の代表幹事なんてやっていた人で、ちょうど立命の経済学部で自然科学概論の教員に欠員ができたので応募してみるかと声をかけられたので応募したんですよね。7人くらい応募があって、ぼくは干されたから幸い本をいっぱい書いていたし、だから人事委員会にダンボールいっぱい送ったら、「こんなにたくさん送られても困る」と言われて(笑)。まあ結局採用されて、放射線防護学者として成長する道はそこで閉ざされて、自然科学概論担当になって、ただいろんな事をやっていたから、学生取りすぎたんで経済学研究入門の小クラスも担当しろとか、地球環境問題もやれとか、やがては平和問題もやれとかね。その度に文部省に安斎がこれを担当して良いかどうかという申請をして審査を受けてるんだよね。それでだんだん広がってきて、この大学が平和と民主主義なんていう教学理論を持っていて80年代終わり頃から、平和博物館を作りたいという構想に呼びつけられてね。これを作るところから平和学に関わるようになって、だから専門なんてわからないんです。

 

中尾: すごい転身というか、そこの辺りのことをもう少し伺いたいんですけど、その前に79年のスリーマイル事後のあとに少し雪解けのような、いわゆる居やすくはなったんですか?

 

安斎: そのとき言われたのは、安斎が普段「原発は危険だ」といっていることもあながち嘘ではないらしいということを主任教授も気がついた訳であって。だって核燃料が溶融するなんて起こりようもないと思っていたことが現に起こったからね。それで「君と僕とは生涯良い論敵でありたい」と言っていたのが79年の4月ですよね。3月28日が事故だったかな。だから割に事故直後に、だから割に正直と言えば正直ですよね(笑)。その頃からでも教室に行っても依然として研究、教育業務がなくてね、まあ口は聞けるようになったけどね、80年代に入ると。だから「ガラスの檻に幽閉17年」とか『週刊朝日』かなんかが小特集を組んだような状況ではあったけど(笑)。それで僕も、このままここに居てもお金を使えるわけでもないからというので、他の東京都アイソトープ総合研究所の糠沢〔敦〕先生などと病院管理学とかね、いろんな他の分野もやって、日本民族学会の会員だったり病院管理学会の会員だったりする。そんなところでも発表したりして、徹底的に干されないように業績っていうかね。

 

中尾: そこで分野を横断して自分の範囲を広めていかれて、そこで立命館から声がかかったんですね。それがジェネラリストへの道だったんですね。

 

安斎: その後につながったということですね。融通無碍の人間ができて(笑)。僕ジェネラリストって必要だと思っていて、一つのことを「これは俺の専門だ」と言う人と、一つのことをいろんな角度から見てその本質に迫るような、まあ科学というのは本来そういう総合性を全体としては持っていなければいけないと思うんですけどね。

 

中尾: 結果としてはそれで自分が広がってよかったんですよね?

 

安斎: そうですね。悔いはないですね。放射線防護学者としてずっと生きていたよりはずっと楽しい人生だとは思うけれども、いじめられたり怒鳴り散らされるのは御免被りたいものですけどね。歩んできた道そのものは悔いは無いですね。かえって得したのかもしれないと思う。

 

中尾: アイデンティティとしては科学者というアイデンティティはずっと持たれていたんですか?

 

安斎: 多分、ノーベル賞級の研究をやっている人たちにくらべるとそういう学問的アイデンティティは強烈ではないと思いますね。つまり何か研究をして極めるという事と、そのことを社会的な視点も含めて人々に伝える社会教育の面と、それから若い人に伝えるという意味では僕はかなり分散していますね。研究一筋とかいうんじゃなくて。まあこの年になるともう社会教育、評論活動含めてね、それは平和学でも放射線防護学でも、充填が一つでは無くて両方いってるから。まあ学者であるからそういう意識はあるけれども。

 

中尾: そうなんですね、ありがとうございます。今までのところで、お聞きしたいことがいくつかありまして、日本科学者会議について今はどう思っているのかという、これは坂東先生からのご質問なんですけれども。

 

安斎: まあ60年代はね、ベトナム戦争と日本の公害問題が中心で、科学者や技術者の責任が問われて学問分野横断的に、自然科学、社会科学、人文科学、横断的に作られて一時は6,000人以上の科学者集団になって、歴史的な意味を果たしたと思いますけど。今はさほどの影響力を失っている感じがする。もう僕は代表幹事であることもやめたし、なかなかややこしいですけど、専門分野とそれが社会で適応されて人々の生活にどういう影響を与えているかということと結びつける視座をもった科学者集団としては必要だと思ってるんけど、なかなか会員が増えないし、やっぱり科学者も自分の専門分野以外に組織されるということにあまり好まないように見えるというか。どこでも組織活動が難しくなっているというけど。

 

中尾: 敵対はしていないけど、もう少し良い方向にいけるかなというような思いもあるということですね。

 

前ページへ ・ 次ページへ