放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(安斎先生)

安斎育郎先生へのインタビュー 2/6

放射線健康管理学教室

中尾: その頃は内部被曝というのはあまり知られていなかったのではないですか?

安斎: 放射線防護学の分野ではちゃんと、外部被曝と内部被曝があってということはちゃんとありましたけどね。当時は学位論文だって手書きで、割に薄っぺらなものです。これ工学博士をとった論文だけど(笑)。まあややこしい論文ですよ、とにかく。半分数学の論文みたいな。

中尾: こういうテーマというのは自分で一から考えられたんですか?

安斎: 僕が所属していた放射線健康管理学教室の先生は、吉沢康雄先生という医者ですからね、工学的なややこしい計算とかなんかではとうてい指導できないので、僕が彼の講義などを通して培った問題意識でいろいろやっているうちに、技術的改良によっては解消できない不確定性があることを外部被曝と内部被曝両方について理論的に定量化しようという結構当時は野心的な試みで、これはいまでも通じると思うんだけど(笑)、ややこしい理論的な考察をしたような論文で。でね、そんなことをやっている内はぼくは社会的な視点というのは培いようがなかったんだけれども、1965年に日本科学者会議というのができたんですよね、12月だったと思うけど全国の学際的な組織ができて。東大には宇井純という『公害言論』を出した彼とかも含めて、社会的な側面からやっぱり科学技術のあり方を考える必要があるという風潮があって、日本科学者会議東大分会というのを作ろうかというので、宇井さんなんかにも来てもらったりして一緒にやったんです。彼も非常に良い長い間助手をやってた人だけどもね。だから66年に僕はすぐ日本科学者会議に入って、原子力問題研究委員会の担当の幹事かなんかにされたんですよね。だって原子力を専門にする人が東大の原子力工学科の学生とか、茨城県東海村の原子力研究所の労働組合をやった中島篤之助とか角田道生とか結構原発について社会的にものを言ってた人たちが、科学者会議の会員でもあって、ぼくはその人たちにずいぶんしごかれたんですよ。原子力開発がどういう社会的な意味を持つかというね、放射線防護学だけでやっていてもダメだなと思い始めたのが66年の大学院の修士課程の終わりぐらいからですね。でそのまま博士課程に行って、日本科学者会議の原子力問題研究委員会の仕事をやっている内に日本の原発立地計画が全国的にいろいろ展開されて、地域住民が危険な物かどうか専門家の意見を聞きたいという話があって、われわれが呼ばれて行くことになる、60年代のおわり頃から70年代にかけて。そこで科学者会議の原子力問題委員会の委員長をやったのかな。だからたびたび呼ばれて講演をする機会も60年代終わりから70年代初頭にかけて多くなって、行ってみると全然ぼくが持っている知識が役に立たないことがわかって、北海道の岩内の原発なんかに行くと、僕が放射線防護学者としていろいろ説明して原子力の潜在的危険性なんかを言っても、質問の段階で、岩内はホタテの養殖をしているけど放射線はホタテの養殖にどんな影響があるかとか、サガさんという町の布団屋さんが、これから布団屋さんをやるにあたって原発が来るとどう影響があるかとか、隣の共和町のメロンの生産にどんな影響があるのかとか、知らないでしょそんなこと全然(笑)。だからしごかれたんですよねそれで。原子力の専門家面をしてそんなとこ来る以上、地域に原発作るっていうのは全ての問題を持ち込むってことだから、「それはおれの専門じゃないから知らない」っていうわけにはいかないと思い始めて、だから60年代終わりから70年代初頭にかけて、住民にしごかれて、6項目の点検基準といってね、1972年に日本学術会議が最初にやった原発問題のシンポジウムがあって、そこで基調報告をやらされたんですよね。若干32歳の安斎育郎が、日本学術会議と言えば当時は選挙で選んだでしょ。有権者、科学者30万人ぐらいでしょ。全国区と地方区でそれぞれ候補者を出して国の科学政策の基本を定めて政府に答申を出すようなとこで、そこで小一時間演説をしたんですね。このときにいわゆる、6項目の点検基準というのを提起して。

中尾: 安斎先生は大学で専門家としての教育を受けたということと、講演であったり住民の中でしごかれたというのと、それはどっちが大きかったとかは言えるものですか?

安斎: なんだかんだ69年に学位論文を書くまでは、結構実験室に行ったり計算したりするのがメインだった。それと重なって後半部68、69年あたりから全国に出歩くようになって、日本学術会議で演説したのを皮切りに1972年12月4日だったような気がするんだけど、主任教授に呼ばれることになるんです。

中尾: ここに書いていますね。「第一回原子力シンポジウム基調講演で日本の原発政策を批判して主任教授に呼ばれる」[注1]。

注1 安斎先生の@@@ p.@@より

安斎: そうです。その頃の主任教授の吉沢康雄先生は国の放射線審議会なんかの関係で一定の役割を負うようになって、そうすると政府関係者や電力関係者と会うと、こういう演説をした安斎育郎を抱えた吉沢教授はやっぱりそれなりに注目されることになって、何であんなの飼ったいるんだみたいなことをだんだん言われるようになるんですね。だから一番僕が厳しかったのが、72年の12月5日ぐらいからスリーマイル原発事故が起こる1979年の3月29日ぐらいまでの間が最も厳しくアカデミックハラスメントを受けた時代で、スリーマイル原発の事故が起こっちゃった核燃料が溶融して、日本の新聞でも一面トップに出たあの事件が起こった直後に主任教授から呼ばれて、「君と僕とは生涯良い論敵でありたい」とか言いだしたんですよ。だからまあ、若干市民権を得たんだけれども(笑)。

角山: これ拝見しますと、関西電力の美浜一号炉で漏洩事故があったんですよね。それで問題提起をされて、「やっぱり現実的にいろいろやっていこうよ」というような主張に読み取れるんですけど、これが見る人によると、反原発のように思われてしまうわけですか?

安斎: この頃はぼくも原子力そのものを否定するような考えには立ち至ってなくて、6項目の点検基準をみたすような形でやろうよということだったんですよね。でも電力会社筋からみると、「けしからん。反原発だ」と、反国家的イデオローグみたいに位置づけられたんですね。

中尾: 放射線健康管理学という分野自体のことをお伺いしたいんですけれども、この分野というのはやはり原子力ありきの分野ということで、原子力を否定するというのはあり得ない。しかし分野の中での科学というのはしっかり保たれているという考えでしたか?

 

安斎: 東大医学部には放射線医学教室というのは別にあるわけね。それと他に放射線健康管理学教室を作ったというのは、やっぱり国の原子力政策に沿う形で、吉沢先生は原子力発電株式会社の健康管理医としても毎週通ったりしてたしね。それで放射線審議会とかそういう国の役割も負うようになったのでね。大学での彼の講義は、物事を整理するのが上手くて、「放射線健康管理学の主要なテーマがこういうのがあって、各テーマには6つのポイントがある」とかいって黒板に汚い字で書いて(笑)。それで放射線防護学の彼なりの体系的な知識は随分整理して教わった感じがするんだけど。やっぱり所詮そういう問題だけではこの国の原発の安全性は保てないだろうという気分をだんだん強めていきましたね。

 

中尾: けっこう机上の学問というような感じなんですかね?

 

安斎: だからもともとはあまり社会的な視点とかはないからね。やっぱり医学部の教室で。

 

角山: どちらかというと、原発で作業したりする人向けの防護基準を考えるとか、それとも一般の人も入るんですか?

 

安斎: 一般の人のももちろんありましたよ。公衆衛生医学教室と繋がっていたんです。初代のこの教室長は公衆衛生学教室の勝沼春雄という公衆衛生学の分野では学会でボスだった人がとりあえずこの教室主任を兼ねていたんですね。それでぼくを結局いじめることになった吉沢先生はもともと助教授から始まって途中で主任教授になって、本格的にわたしは70年代にアカハラを受けるようになって、その頃は彼が国家との関係で重要な使命を帯びた頃からだよね。〔安斎先生は〕けしからん存在で。それはなかなかやっかいないじめで、研究教育体制から一切外されて、研究費は使えない、教育もさせてもらえない、それからやがて70年代は安斎とは口をきいてはいけない、一緒に歩いてはいけない、一緒に飯を食ってはいけない、一緒に写真に写ってはいけない、それからT君という東京電力の医者で東大いって研修に来ていた人が、他にもスペースがあるんだけど(笑)僕の隣に配属されて、夕方になると安斎が昼間どんな電話をしていたとかいうのを日報体制で報告する係をさせられていて。やがて彼はそれがいやになって東京電力を辞めるようになるんだけども。公園に行くと、東京電力の安斎番という人がいてそれが尾行してきて、たまに特急電車で会ったら「おおご苦労さん」なんてこともありましたね。それで70年代というのは僕に子どもができて奥さんが入院していた時期があって、子どものお弁当をつくって幼稚園に送ってから東大行くと少し遅れるんですよね。でも大学の研究者の出勤時間なんて自由なんだけど、教授の直属のもう一人の女性の助手がいたんだけど、「民間なら首よね」とか大っぴらにいうんです。だからぼくの研究仲間が、東大の日立のコンピューターを使いに研究の打ち合わせなんかにくると、公然と嫌がらせをして研究室から追い出されるとかね。それでぼくのコメントが週刊誌なんかに出たりすると、火曜日に文献小読会という教授を中心にしたみんな集まる勉強会みたいなのがあるんですけど、それぞれ毎週順番に自分が勉強した研究論文を紹介して討論するんですよ。その冒頭に「週刊誌に僕のコメントが出てた。くだらねえ」とか大声でわめき散らすような怒鳴りかたしていましたね。吉沢先生は根は悪い先生じゃなくて、セツルメント運動なんかをやってた人で、彼の子どもには僕のPCをあげたり、奥さんもよく知っているしお宅に遊びに行ったこともあるから、人間的にというより国家の命をうけてそれを推進しないといけない人とそれに批判的な立場の人との間で彼が相当悩んだんじゃないかと、やっているうちにだんだんエスカレートして怒鳴り散らすようになるんですよね。人が変わったように。

 

中尾: 教室には他に何人ぐらい人がいたんですか?

 

安斎: 教室には、放射線健康管理教室に教授と助教授、それから助手が僕ともう1人、あとラボランチという実験助手ですね、そういう人が2人ぐらい雇われていて、それから放射線管理室というのがあって原子力工学科が放射線を扱うからそれを管理する、まあうちの教室と兄弟分の実務を担当する管理室があって、そこに室長と助手と技官かな。だから総勢10人ぐらいいて、毎週火曜日になるとみんな集まってやるんですけど、やがて教授が怒鳴る場になって、それで僕が主たる不機嫌の原因になるわけだけど。みんなもあんまり、直属の助手以外は楽しい勉強の機会にはならなくなって。

 

角山: 勉強会で取り上げるペーパーは、このジャンルでいくと疫学とかですか?

 

安斎: 疫学も含まれるし、まあ非常に広いですからね。理工学的な分野とか医学的、生物学的、疫学的、公衆衛生学的なものもあるけれども、同時にソ連の人工衛星が落下するかもしれないとなったときは、落ちてきたらどういう放射性物質がどれぐらいの濃度で地上に降ってくるかという評価に関することとか、理工学的なものもありました。マウスの照射実験のような実験もやっていました。

 

角山: 実験は急性影響が主なものですか?

 

安斎: そうですね。だって遺伝的影響なんてのは、何万匹もつかって何年も観察しますからそれできないんで。

 

角山: もっぱらそういうのは疫学に頼るわけですか?そういう時は吉沢先生の立場ははっきりでてしまうものですか? つまりサイエンティフィックに勉強会とかで皆さんで議論するような雰囲気があったのかなかったのかということです。

 

安斎: それはあったけど、10人が10人それぞれ結構違うルーツでしょう。僕なんか工学部だしね。それから医学部のやつもいるし、保健学科という東大に新しくできた臨床検査とか看護師さん系列のそういう出の人もいるし、理学部の出もいたかな。だからあまり深い議論にはならないんですよね、10人程度では。理解し合うぐらいですね。

 

中尾: 講座の中でもさらに分野に分かれていたんですね。

 

安斎: そうなんですよ。まあこの国の科学技術というのはまず細分化して専門家を作って、「おれは何の専門家だ」と言わないと押しがきかないだろうから。

 

角山: だから多角的に学ぶにはたぶん良いところだと思うんですが、そういった所は先生も鍛えられたんでしょうか。

 

安斎: だからあなたは何の専門かを聞かれると、困るような教室ですよ。ぼくはいまだに何の専門か聞かれても答えにくいけども。放射線防護学と言いますけどねそりゃあ。

 

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