放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(和田先生)

和田昭允先生へのインタビュー 前編 2/4

プレヒストリー 物理化学

b:いよいよ、先生のお話に入ります。物理と生物、確かに魅力的なテーマですが、それにしても、物理学者からの興味の持ち方は一通りではないように思います。先生の場合は、何がモチベーションで生物と物理を結びつけようとしたのか、その学問的な背景、学問の内側から発したお話を、まずは聞きたいです。

w:はいわかりました、もう大分昔の話ですが、思い出せる限りお話します。

b:ありがとうございます。

w:これからお話しするポイント、要するに私がやってきたことの特徴といえば、それまであった学問の範囲や境界に邪魔されることなく、サイエンスの対象―つまり自然―を自由闊達に追求したいということです、私たち科学者は、自分で境界を作っていますね、考えてみるとおかしいじゃないかというのが、そもそもの一番の発想ですねぇ。

b:高校までは自然科学も、物・化・生・地といって区別していますよね。私は大学で自然科学概論を講義していたのですが、「先生の講義は、物化生地を一緒にしたようなものですね」といわれました。

w:もちろん、自然を理解しようとしたときに、そういう境界をもうけた方が分かり易い。教養科目は別として大学が境界を作っているというのにも意味があって、ものを教える場面、主に教育ということから考えたら、明確な境界を作って教育しなければならない。例えば、物質の反応を見る化学とか、物性や物質の基本を考える物理とか。教える場合は便宜上、物事を分野という形で分けて教えるのは当然。 だけれども、研究もそうだと思うところに間違いがある。

b:あ~、なるほど、教育の場面と研究の場面を区別することが必要だと・・・

w:一緒にしちゃまずい。あくまでも分野に分けるのは教育の便宜的な手段である。そういう感じがしたものですから、私は化学教室出身ですけれども、化学のなかでも物理化学をやったのです。

b:物理化学は、一般の化学とはちょっと違うのですか?

w:ちがいますね。一般の化学はたとえば有機化学では、とにかく物質の名前をいっぱい覚えて、反応を覚えてですね、それで、どれとどれを合わせたら何ができるということで、まぁ、それはそれで、立派な学問かもしれないけれども。そこで、もうちょっとその基本にあるものを知りたいと。そうなると、そりゃあ物理が入らなきゃだめだろうと、いうことです。当時は東大の理学部化学教室の物理化学でしたが、そこに入りました。鮫島、水島、森野先生方がおられる第1第、2第、第3という教研究室があったのですが。

b:理学部物理教室ではないのですね?

w:はい、当時の東大理学部化学教室には物理化学が三研究室ありました。物理化学第一が鮫島實三郎教授の、コロイド化学に重点を置いた古典的な物理化学。 第二が水島三一郎教授の分光学を実験手段として用いる分子構造研究室。 第三がX線回折・電子線解説や誘電分散を手段とする量子物理化学です。

b:先生は化学教室の中の物理化学に行かれたということですね。で、森野先生のところだったのですね

w:はい、森野先生は名古屋大学から来られた先生です。先生は東大にモダーンな物理化学を作られた片山正夫先生研究室出身で、やはり同研究室出身の水島先生の弟弟子になります。
名古屋大学に行かれて、教授で戻って来られて一年目で、非常に新鮮さがあったものですから、弟子入りしたわけです。何を研究したかというと、エタン分子の内部回転のダイナミックスです。エタンは炭素が2つあって、それぞれにHが3つずつ付いています。そこで両方のカーボンのHが1つずつ他の原子になった、具体的には例えば、塩素原子(Cl)になったとします。CH2Cl-CH2Cl、これを、両方の炭素に塩素が付いているから1,2二塩化エタンという。この分子は炭素間の結合は単結合だから、お互いに回れるわけですね。これを内部回転といいます。

b:回転運動と?

w:そう、C-C軸の周りの回転運動があるわけですね。この研究は水島・森野スクールが、世界で初めて開拓し確立した分野です。

b:へぇ~、回転があるいうのは、新しいことだったのですか?その頃。

w:もちろん回転があることは分かっていたけど、それを、赤外線分光、ラマン分光、あるいは誘電率測定で、実験的かつ定量的に明らかにしたのです。水島先生は、ドイツのピーター・デバイのところに留学されて、ドイツからそのラマン分光、赤外線分光といった分光学を日本に持ち帰って、分子対象の分光学に適用されたのですね。原子対象だと波長が短くて紫外線・可視光線領域だけれど、分子対象だと,特性波長が長くなって赤外線領域の分光になります。大きいから振動や回転がゆっくりになるのですね。これを分子対象の構造分析に導入された。
その頃の物理化学は、新しい考え方をどんどん取り込んで、意気大いにあがって非常によかったな、例えば、仁田勇先生のX線の結晶学とかね。

b:あ、結晶についてはもっと波長の短いX線を使ったということですね、

w:分子については電子線を使っていたのです。ガスにして、小さいノズルから噴出させてそれを電子線で叩いて回折像を見るのです。私はその研究はやってなくて、私がやったのは、え~、悪い仕事でないと思っているんですけど、以下のような研究です。
上記1,2二塩化エタンは、炭素原子間結合の周りに回る内部回転が出来るからいろいろな構造がとれる。これは回転異性体と呼ばれ、炭素・炭素の結合軸方向から見た以下の構造があり、それぞれ名前が付けられています。
これらの構造では、原子間の反発がありますから、それぞれの構造は皆違う内部エネルギーを持っている。
トランス構造は全部の原子が離れているから,エネルギーが低い。
シス構造は全部の原子同士の距離が近いから、それら相互の反発力で大きなエネルギーを持つ。
ゴーシュ構造は、大きな原子半径を持つ塩素原子どうしが近いので,トランスとシスの間ぐらいのエネルギーになる。
これらの内部エネルギーに支配されるボルツマン分布でそれぞれの構造を持った分子のポピュレーションが決められるわけです。

b:なるほど、化学式はいつもややこしいなと思ってまともにじっくり見たことがなかったのですが、こうして比べるとなかなか興味深いのですね。でもその構造の違いがどういう新しい物質の性質の展開に結び付くのかな?

w:ということで、温度を変えて、この構造がどういうポピュレーションになるかを見ると、回転運動のエネルギーカーブが描けるわけなのですね。で、そのカーブを分析したのです。水島・森野研究室で私がやった初めての仕事です。当時、学部生でした。あれは、今でも、自分でも気の利いた話だと思うのだけども、電気双極子モーメントで測るわけです。炭素・塩素結合は大きな電気双極子モーメントを持っている。トランス構造はこれらが互いにに打ち消し合うから分子全体の双極子モーメントはゼロ。ゴーシュ構造では,二つの炭素・塩素結合の電気双極子モーメントのベクトル和で、分子が大きな電気双極子モーメントを持つようになる。だから、電気双極子モーメントを測ればそれぞれの構造の割合を知ることが出来るのです。

b:この分子があると、周りに場を作る、場の理論ですね!

w:そうです。だからこの分子が溶液になると、周りの溶媒の誘電率に応じて反動電場(リアクションフィールド)を誘起する。そうすると、誘電率が高くなればなる程強くなるリアクションフィールドによって、自分が持っているダイポールが大きくなる。つまりゴーシュ構造のポピュレーションが増えるわけです。
そこでいろいろな誘電率の溶媒でその反動電場を計算して、測定で求めたゴーシュ構造のポピュレーションと比較し,反動電場のモデルが正しいことを証明したのです。なお、研究は世界的に知ってもらわなければ意味がないと言うことで、論文ははじめから全部英語で書きました。私は総説以外は日本語で書いた論文はありません。まだ旧制の3年のとき、1953年で24才した。旧制大学の3年だから、最後の年ですけれども。

b:へ~、そんな若い時に!

w:そして、国際誌のJournal of Chemical Physics に投稿しました。そしたら通りましてね、シングルネームでですよ。

b:へ~!すごい早熟だったんですね~、でも、投稿する手立ては、その頃、わかっていたのですか?

w:もう戦争は終わっていましたから。私はとにかく、ヒトのしないことをするのが好きだったから。

b:よくそんな若いころに投稿されましたね。普通あまり投稿するところまで考えないじゃないですか!

w:それはねぇ、水島・森野研究室が世界的に評価を得ていましたからできたんですね。ある学問分野で、世界的な評価を得るというのはどういうことかっていうことは、若いわれわれにも感じで分かっていました。

b:ああ、なるほど、分かってたわけですね。

w:感じとしては分かっていましたね。それで、やってみようってんで、分子が細長かったから楕円関数使ってね。

b:へ~!やっぱり腕があったからできたのですね。実験まではできても、解析は腕が要りますね!

w:それで、リアクションフィールドを計算した。今はもう元気なくて、できないですよ、そんな難しいこと。

b:先生には相談しないで?

w:色々相談していました。それで、最後に僕が論文のドラフトをかいて、森野先生の名前も付けて、二人の名前で出そうと先生に持って行ったら、「自分はただ相談を受けただけだからお前シングルネームで出せ」って・・・・。

b:へ~、何か面白い先生ですね~

w:それで、シングルネームで出して、通りましてね、で、旧制ですからドクターまだ全然持っていない。

b:はぁ、なるほど、当時はドクターなんてとろうがとるまいかは関係ないって感じでしたよね。

w:だけど、それを、ハーバード大学の先生(Paul Doty教授)が見て、お前はドクターを持っていないけど、ドクターと同じ実力があると認めてくれてね。

b:おもしろ~!ハッハッハ、

w:その論文、ちょっと待って、あるかも知れない…

b:へぇ~すごいなぁ、こういう人を育てなあかんなあ!

b:これ先生の論文ですか?ちゃんと整理してあるのですね。一番最初の論文ですねぇ、

w:え~っと、実はその前にすでにひとつ論文出しているのです。

b:へぇ~!

w:リアクションフィールドに凝っていましてね。誘電体の中に電気双極子を持った分子が埋まっているモデル・・

b:はい、はい、

w:その最初に書いた論文は、1952年だから大学学部(旧制)の3年生(23才)のときだな。
ファンデルワ―ルス力っていうのがありますね。例えばヘリウムとか中性の分子や原子でも引力が働くのです。その理由は、原子や分子ですから原子核があって、周りに電子があります。それが、電気的に全体としては中性だけれども、フラフラ揺らいで瞬間的な電気双極子モーメントを出している。そんな2つが近づくと、その瞬間的に揺らいでいるダイポールモーメントがコリレートして動くようになり、これが、相互作用して、引力になる。

b:内部の偏極が起こっていびつになるのですね・・・。

w:そこで2つのフラクチュエーションが相関して引力を生むんだと、いう話しを聞いたものですから、それじゃあね、その頃、リアクションフィールドっていうのにすごく凝っていたもんですから・・。

b:これ自身はリアクションフィールドとは関係がないですよね、溶液の中に溶けている場合と、せいぜい2体の間の相互作用とですから。2体の場合は、普通に起こる偏極で終わりですね。

w:ええ、そうです。でも、誘電媒質の中に発生する偏極があれば、その揺らぎは、エネルギーを下げる格好でリアクションフィールドを誘起するだろうと考えたわけです。2分子の電気双極子モーメント間の引力を、一方の分子に変えて周りの媒体の分極、つまりリアクションフィールドに変えたのです。それを論文にかいたんですよ。

b:へぇ~、発想が広がるんですね!

w:僕は今の若い人にすすめたいと思うのだけれど、研究者は“何かに凝る”ことが大事なのです。たとえばこのリアクションフィールドっていうものに凝ると、何でもかでもリアクションフィールドで考えようって気になるわけですよ。

b:まあ、まさにね、これが、場の理論っていうか、一体問題であるにもかかわらず、その周りの環境と、その場に何を及ぼすかという問題としてとらえるという豊かな発想ですねえ。

w:それで、1個の原子あるいは分子が媒体に入ったときと、離れたときとの間にエネルギー差が出るっていうのは、リアクションフィールドの有る無し、だ、要するに蒸発熱が計算できるということでモデルを作って蒸発熱を計算してね、論文書いて発表しました。これが私の最初の論文です。

こういった具合でリアクションフィールドに凝っていたものですから、周りの媒体で1,2二塩化エタンの回転異性体のポピュレーションが媒体の誘電率によってが変わるよ、という論文を、1954年のJournal of Chemical Physics に書いたのです。

b:この論文出されるときに、「もう誰かやっているかもしれない」とは思わなかったのですか?

w:ええ、

b:そういうのは、もう、リサーチをずっとやっておられた?

w:いや、

b:ええ??

w:あのねぇ、そのときの僕の感じは、まぁ、あの頃戦後すぐですから、すぐっていっても、私の大学の卒業が昭和27年だからもう、戦後7年は経っていたわけですけれども、「調べるより、出して、すでに出ているものだったら突っ返して来るだろう」というわけです。

b:なるほど、ほお~、レフリーとはそういう役割を果たすものですね。いや、私、昔交通流の理論を199年代に始めたことがありました。

w:知っています、知っています!

b:あの時に、最初は遊びみたいなもので、愛知大学時代で、同僚の長谷部さんというなかなか切れる物理屋さんでしたが、面白い結果を出してきたのです。でも、私は、「面白いけど、すでにこういうことはやられているかも知れない」と思って、実は京都大学のカオスを専門にしておられた山口昌哉先生、当時もう定年退職されて龍谷大学におられたのですが、のところにわざわざお伺いして、「これってものになりますかね?」と話を聞いてもらったのです。そしたら、山口先生が、「これおもしろいじゃない」と激励してくださり、論文にまとめる気になったのです。これまでの論文をサーベィすることと、もっと先に進めるために、勉強しました。リサーチしないといけないと、わざわざ工学部土木工学研究室に行って、ジャーナルを全部借りてきて、みんなで手分けして読んで、調べた覚えがあります。それで、それまで、交通渋滞の起こるメカニズムは解明されておらず、いつも「自由走行領域」と「渋滞領域」を別のフレームワークで考えていることを発見したのです。物理屋は「統一理論」が好きですから、同じ枠組みで説明することに情熱を燃やすわけです。まあ、多体問題を南部流の「自発的対称性の破れのメカニズムで解明する」というのが好きなんですね。

w:なるほど。

b:もちろん。いいレフリーに巡り合ったら的確なコメントをくれますが、半分は訳が分からないレフリーにあたります。特に、新しい考えをわかってくれるかどうかは運ですね。

w:私の場合は、もちろんここまで行くには色々読んでいますからね、論文をね、

b:そうですよねぇ、そういう発想は今までないと確かめておられた。

w:でね、たぶん、こういう考えしている人はいないだろうと思ったんですねぇ、

b:なるほど、なるほど。だけど、大学生のときにそこまで詰めておられるのが凄いです。それもすぐアクセプトされたのですか?

w:いっぺん位は戻ってきたかもしれないけど、そんなに苦労はしていません。

b:その分野は割にスッと入って行けたのですね。

w:そうですね。新しい分野でしたからね。

b:いや、新しいことを始めるに際して、全く経験のない分野の場合と、新しいけど、この範囲でこの分野には適している、分野として枠内だという場合はちょっと事情が違うかもしれませんね。それで、ともかく、海外へのアプリケ―ションに、これは武器になったわけですね?

w:非常に。それで、朽津耕三さんって人が僕の1年上にいましてね、彼が結局森野先生の後を継いだわけです。また、僕の1年下には広田栄治君っていう、後に総合研究大学院大学の学長した男がいましてね。あのときは、森野先生の研究室はアクティブだったもので、助手が3人いたのですよ。僕の一年上の朽津さんが助手、僕が助手、1年下の広田君が助手。こんな秀才に挟まれて日本にいたらうだつが上がらない。外国に行くのなら一流の大学じゃないとだめだと考え、それでハーバード大学の教授に手紙を書いて、こういう論文をすでに書いているのだけどと、って。1954年です。

b:先生、ちょっと待ってください。学部卒業が1952年で、大学院すぐ行かれ…?

w:大学院ちょっと行ったのですけどもすぐ助手にしてもらいましてね、

b:そうでした。湯川研でも、先輩が海外に行くときなって、「お前、まだドクター持ってないな。出さないといけないね。」などといっていたそうです。

w:そうです、外国に行くにはドクターがいるのです。そんなことで、ドクター相当と認められて、米国のハーバード大学に行きました。

b:やっぱり、雰囲気違いました?

w:そりゃあ、違いましたよ。先生も偉いけど、やっぱり、友達がいいですよねー。ご存じないかな?ステュアート・ライスっていう男がいましてね、彼は後にシカゴ大学の教授になって、ノーベル賞をいつもらってもおかしくないと言われている男なのですけれどもね。そんなのと仲良くなりました。彼は日本にも2・3回来て、去年も来たんじゃなかったかな?そういう、優秀な良い友達に恵まれて・・・。
いいですか?こういう話ししていて、

b:はい、研究を始めたときの様子と後から新分野に挑戦したことがどうつながっているか、興味津々です。はい。

w:それで、54年から56年までハーバード大学にいて、

b:2年間ですか?

w:ええ、2年半ですけれども、まぁ、2年も過ぎたんのでねぇ、それで、私、父親がそのときすでに亡くなっていて、母の面倒を見なきゃいかんっていうので、森野先生に、そろそろ帰りたいんだけど、どっかいいとこあったら教えて下さいと、

b:あ、東大をやめて行かれたのですか。

w:休職で行きましたが、もう東大の席は埋まっているし、帰る気もありませんでした。

b:当時、1年2年ぐらい海外出向をしている人は結構いたのでは?

w:その通り。休職だから給料が一部出ていたのです。

b:当時、日本の給料なんてもらっていても、アメリカでは無視するぐらい少額だったから問題になりませんでしたよね。為替レートが360円に時代ですから。

w:しかも、外国行っている者の空席に人が取れたのですよ、あれがねぇ、素晴らしい、あれ今やんなきゃダメです。

b:ほんとですね。今は厳しくて1年も行かせてくれないですね。

w:方々で、こういう経験がどんなに科学者の成長にとって大切か宣伝してくださいよ。

b:ほんとに、今は長期に海外に行く自由が今ないのですね。きつい定員の中でやりくりしていますからね。

w:親分だってね、子分が行かれちゃ困りますからね、行ってもね、行った後に代わりに人が欲しい・・・。

b:採用できるのならねぇ~、

w:そうです、

b:当時は、日本の給料って、問題にならなかったのですよ。ですから、給料もらっているかどうかなんて、ネグリジブルでした。今、そうはいきませんからね。

w:そうはいきませんからね。

b:そこをどうするか、ありますけど。

w:ですから、そういう状態にあったから、アメリカ行くとき森野先生に、もうこの研究室に帰ってくると思うなといわれて、

b:あぁ、なるほど。

w:私もそうだと思って、それで、どこか良いポジションがあったらお願いしますといったら、1956年に、お茶の水女子大学に職が見付かった。お茶大の物理化学の教授が立花太郎先生という、コロイド化学の有名な先生ですが、非常にありがたいことに、私に、全く自由にさせて下さったのです。もちろん、学生実験の世話とかはやる。

b:デューティーはまぁ、別として・・・。

w:ですけれども、テーマとしては、全く自由でした。本当に有難かったと思っています。

b:その~、立花先生というのは化学出身ですか?

w:そうです、化学出身で~。

b:珍しいですね、変な話。

w:ええ、珍しい。物理化学のほうは物理の影響を受けているからでしょう。有機化学なんてのはもう、徒弟制度ですから。

b:そうですねぇ、そうですか。それでお茶大に行って、そのへんから生物物理になるわけですよね。

w:生物物理をやるのでアメリカへ行ったってほうが正しいんですねハーバードへね。

b:あ、そうですか。それまでは、どちらかというと物理化学

w:そうです、物理化学

b:では、生物物理をなんでやろうと?ここが一番聞きたいところです。

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