放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(山下俊一先生)

山下俊一先生へのインタビュー 5/5

チェルノブイリ事故

中尾 原研に来られてから、チェルノブイリの関わりがあったんですね。

山下 はい、原研に来るまでは、いい意味でも悪い意味でも臨床の放射線と関係のないところで仕事していましたから。でも来た以上は、原研の教授になったときに医学部長から少しは放射線のこともしてくださいと言われて、少しはせんといかんなというのは、まあその程度でしたけど。

中尾 じゃあ、その当時から原研内科(※)というところが…

※ 長崎大学原爆後障害医療研究所 原爆・ヒバクシャ医療部門 血液内科学研究分野

山下 いえ、ちがいます。もともとあって、私は原研医療(※)というところです。原研内科は血液で、私は甲状腺、内分泌でしたから、ホルモンと放射線の何かをやってくださいという話だったんです。

※ 長崎大学原爆後障害医療研究所 放射線リスク制御部門 放射線災害医療学研究分野

樋口 そのころは本格的に放射線ということで?

山下 いえいえ、もうぜんぜんなかった。

坂東 ちょっとはやらなあかんと言われた。

樋口 その程度で…

山下 その程度で、これはまた運命で、1989年から90年の8月末までの間は長崎県立病院に内科医長として出てたんですね、あるとき電話がかかってきて、ひょっとするとお前教授になるかもしれんと。それでそこからではまずい、9月1日付けで第一内科に戻ってこいというので、第一内科にまた戻ったんです。それで9月3日の教授会で決まって、10月の1日に教授になったんです。

中尾 相当目を付けられていた感じですね。

山下 というよりも、それで新聞なんかが騒いで、三段跳びで教授になったとか大々的に宣伝されたんです。助手から教授に、講師、助教授をふっ飛ばしたというんで。当時はまだ38歳でしたから珍しかったんでしょうね。

坂東 そうねえ。医者の世界やと何歳にならんと教授になれないとかあるいうて…

中尾 それは珍しいことだったんですね。

山下 私もそれを知らなかったんで、教授になったら教授の給料をもらうのかと思っていたら、もらえないんですね(笑)。何号俸というのがあって、もう一番下になる。なんじゃこりゃ全然変わらん、助手のときの給料と、と思いましたね(笑)。

中尾 長瀧先生としては、やはりチェルノブイリのことに関わって欲しいと?

山下 ちがう、ちがう。長瀧先生はぜんぜん。「お前、基礎の教授になったけど、いいんかほんとに、辞めてもいいんだぞ」とかって言って、もうあれも!(笑)。言われて、それでその後、「じゃあ原研に行ってから、俺の代わりに外務省の会議に行ってこい」って言われて、10月の今でも覚えてますよ、90年10月の中旬に教授になって2週間目、「日ソ2国間外相覚書会議」にしたがってチェルノブイリを支援するということが決まったんですね。中山外相と当時のシュワルナゼ(ソ連外相)。それのいわゆる会議の委員長を重松先生がされて、それに呼ばれて行って、向こうからロシア人とかも来てたんですけど、当時はソ連ですからソ連の先生が来てて、いろいろ話を聞いているうちに、「おわぁ、チェルノブイリはこんなに大変なのか!」と。ぜんぜん情報がない。当時はまだ甲状腺がんもまだ増えてませんで、そういう情報もありませんでしたから、とにかく大変な所なんだなあと言う漠然とした気持ちで来たら、ちょうど10月に帰って来たらすぐに―重松先生が偉かったと思うのは、日本の政府でやるプロジェクトは直接旧ソビエト連邦に支援できないので、笹川記念保健協力財団、日本財団のプロジェクトを同時に立ち上げたんですね。これはたまたま同時並行的に笹川良一さんのところに支援の依頼が来て、(子息の)陽平さんが90年にチェルノブイリへ行ってるんです、向こうに。でゴルバチョフ書記長と話をしていて、日本政府への依頼と日本財団への依頼が、同時並行で動いていたんですね―その両方の長を重松先生がされたんです。

坂東 ほーお、そうですか!

山下 それで重松先生が東大の後輩の長瀧先生にお願いして、広島、長崎、放医研、放影研の4つでやれということで、それぞれの得意分野で人を出しなさいということで、放医研が線量評価、放影研が疫学、広島大学が血液、長崎大学が甲状腺という役割分担をしまして、両方のプロジェクトが動き出したんです。日本政府のほうはお役所仕事で、お金は用意してくれたんだけど、全部WHOに26億円拠出して、だからWHOが好き放題やるわけですね。だから日本の関与は、お金はやったけども実務的なことはあまりできない。IAEAに対してもそうなんです。ミッションは出すけど、IAEAに対してお金は出すけどコントロールはできない。で、そうすると、チェルノブイリの笹川プロジェクトだけは日本の意志で、日本のそういうプロが入ってやれたんです。

坂東 そういう関係やったんですか。

山下 はい、それで最初にIAEAのミッションが現地へ入ったんです。90年の秋から91年、スモールサンプリングだったんやけど、それじゃ大したデータはでないので、そういうデータの中間報告書を出したら、これが叩かれるんですね、重松先生も。でも当時としてはそれが本当だったと思うんだけども、そのあと笹川記念保健協力財団が入って、私たちが91年から5年間、そして10年間やったら、甲状腺がんがばっと増えたんですね、子どもの。それで一応その時期に合わせて仕事をするようになったもんですから、それがご縁で、とにかくチェルノブイリの仕事がライフワークにまでなったんです。

坂東 そうすると、IAEAとは独立ですね。

山下 そうです。

樋口 IAEAはフレッド・メトラー(※)という方々がやっておられましたけど、そことの連絡関係はなかったんですか?

※ Fred A. Mettler Jr.:ニュ―メキシコ大学医学部放射線科名誉教授、UNSCEAR米国代表

山下 はい、ありました。フレッド・メトラーのところにうちの横山先生(※)とか、長瀧先生を通じて人を出していましたし。あのミッションの中にも我々の仲間が参画してました。

※ 横山直方、当時長崎大学第一内科助手

樋口 メトラーさんと先生と長瀧先生のつながりは、UNSCEARとかICRPでってことですか?

山下 そうです、UNSCEAR とかICRPもそうですしWHOもそうですし。

中尾 すみません、そのあたり素人で確認なのですけど、日本の政府のお金を出す日ソのプロジェクトがあったのと笹川財団のがあって、先生たちが調査結果を出されたのは笹川の方のプロジェクトであったと。それでそれとは別にIAEAとかの研究チームがあってそこには先生は入られてはいなかったんですね。

山下 IAEAには当時入っていませんけど、WHOのプロジェクトは入りました。長瀧先生が両方のメンバーで、私は最初の頃はまったく入っていませんでしたが。

中尾 それで先生がたのチームが甲状腺がんの増加について、最初に研究された?

山下 いいえ、これはですね、初めてではないんです。これはですね、Nature に出したデミチック教授とかカザコフというベラルーシの保健省の人が始めたんです。92年。これはですね、実は91年に長崎で会議をしたんですね。そのときに彼らは甲状腺の病理標本を持ってきたんですよ、甲状腺がんが増えているという標本として。長瀧先生はそれを見て病理の先生を呼んで見せたら、標本が悪くてがんという診断ができないんですよ。非常に長瀧先生は困られて、「きちんと確認しなければいけないですね。今は増えたとは言えないけれども将来的については」というようなコメントを出したんだけど、増えてないというところだけが拾われてしまって、当時としては後出しジャンケンと非難されていますけど、そんなことは決してなくて、まだ確認が必要だという話を92年にされてました。だから92年のネイチャーの論文が出た後に、すぐに長瀧先生は反論を書かれたんですよ。これは真に増えているかどうかはまだ調べないとわからないと。科学者としては当然なんですけども、結果として増えたものだから、あの時に足をひっぱったとか言われるけれども、それは大きな間違いだと思います。

坂東 科学が判断するんやと。

中尾 先生方の科学的な判断で増えたという決着がついたという…

山下 それが10年後です。だってこういう調査というのはやっぱり再現性と信頼性が求められますから、線量評価というのは一番難しいんですよ。これで何年もかかりました。だって後からミルクはいくら飲んだとか、当時は直接被ばく者の測定値も、環境が汚染された中で測定していますから、精度管理が全くされていないので、わからないんですよ。私たちとしては甲状腺がんの診断は自信をもって言いますけど、線量がわからないのに因果関係は言えないので、それで疫学的な調査をケースコントロールでするまでに10年かかりました。

※ Vasili S. Kazakov, Evgeni P. Demidchik & Larisa N. Astakhova, "Thyroid cancer after Chernobyl", Nature, volume 359, page 21 (03 September 1992)

中尾 笹川プロジェクトで一番大変だったのは、そこのところですか?つまり線量の推定とか。

山下 いいえ、いちばん大変だったのは91年から5年の5年間。5年間で一番大変だったのは、診断の基準が違うんですよ。欧米とロシア。それから診断のやり方も違う。ですから一番苦労したのは教科書作りです。だってスタンダードにしないと、同じ病気でも違った診断がつくわけだから、それから始めました。超音波診断もそうだし、細胞診もそう、病理診断もそうです。だから当時はロシア語で教科書を我々いっぱい作ったんです。

中尾 すごいですね。そこからですか。

樋口 どんな感じだったんですか?当時は甲状腺に対して、ソ連の…

山下 政府は否定。特にロシア政府はまったく無頓着。国が崩壊しましたから責任の所在がなくなったんです。ソ連という政府がなくなったから。ベラルーシは被害が最も大きいんで国が一時期3分の1ぐらいの予算をチェルノブイリの支援に使ったのだけど、ルカシェンコ大統領が「こんなものはやっておれん」というので強権を発動して、一律補償しちゃったものだから、ある意味で不平不満はあったかも知れないけど、落ち着いたんです。
 ただウクライナは、カナダとかヨーロッパからの支援が多くて、反原発団体がいっぱい入りましたから、とにかくみんな被災者で病気だ病気だというので我々も困っちゃったんだけども、そういう風潮があって、96年、10周年の時のIAEAの会議でずいぶんもめたんですね。もめたんだけども、甲状腺がんはどうやら増えているようだという結論を出しました。それ以外についてはもうわからない、わからないというよりはむしろないという結論。その10年後の2006年に20周年の時に同じ結論がやっぱり出されて、ロシア語の文献もいっぱいあるんだけど、さっき言ったように線量がまず評価できないので、病気があることは事実、でもその病気もさっき言ったように診断基準を統一しないとものを言えないので。

中尾 そこでないというふうに言うってのも、また大変なことだと思うんですけど。

山下 大変なことですよ。

中尾そうされた判断というか理由というのはどういったものだったんですか?

山下 おそらくないということは物理屋さんも言えませんし、やっぱり医学者ですね、言ったのは。ただ病気が普通の病気と同じ病気で、放射線の被ばくという証拠がないわけです。

中尾 証拠がないという。

山下 そうです。

中尾 そこがすごく難しいところですね。

山下 そうですね。でも外部被ばく線量、内部被ばく線量の両方を評価して、ご存知のようによくいう100 ミリシーベルトというのがあるんですけど、線量が甲状腺だけは数千から数万なんですよ。もう圧倒的に被ばく線量が高いわけね。ミルクの制限がしっかりされなかったんで。外部被ばく線量は数ミリシーベルトなんですよ。だからセシウムに対しても、ミリシーベルト単位ですから、そういうものでは障害は起きないというのがもともと。

坂東 そやけど内部被ばくがあるというのもあまり分かっていないですよね。

山下 私はね、個人的に91年から子どもたちを診療していて、最初は甲状腺がんって思わなかったんです。リンパ線がグリグリ腫れとってね。風邪かあるいはウイルス性のものかなと思っていたんですけど、ポツンポツンと出てくるんですよ。おかしいなと思って93年から細胞診を始めた。向こうにパパニコロウ(※)というのがなかったんで、細胞診を向こうで始めたら、本当に乳頭がんがどんどん見つかるんですよ。最初は日本の福島のようにスクリーニング効果なのかなと思ったけど、あまりにもゴメリ地区に多いので、これはやっぱり線量の再評価というのが大事になった。

※ パパニコロウ染色:細胞診のための染色法

チェルノブイリの住民たちと

中尾 住民との関係についてお伺いしたいんですけど、そういうふうに診断するときに関わられると思うんですけど、そういうとき先生はロシア語ですか?

山下 通訳が一緒にいます。今おっしゃったように、我々はある意味でいいとこ取りしかしてないんで、チェルノブイリで。本当に不平不満とか影の声というのは通訳は言いませんから、分からないんですよ。

中尾 本当にそこの地域の方たちがどう思っていたかというのは分からないんですね。

山下 本当に安心してくれたのかはどうかは…。もちろん講演会なんかしましたから、いい話はいっぱい聞くんですよ。本当に安心したとか聞くんだけど、心底そうだったかどうかはわかりません。

中尾 でも先生としては、安心させるということがご自身のミッションだと思ってされていたんですね?

山下 はい。ある会場で―クリンシーだったかロシアのブリャンスクで―質問を受けたんですよね。「自分たちの子どもはどうなるんだ!」ってね。日本と同じですよ。もう回答がないから、「オレだって母親が16歳の時に被爆してこんなに元気で自分の子どもも4人いるよ」っていう話をしたら、みんな安心してね。長崎も広島も原爆で大変な目に遭ったところの子どもたちもちゃんとそうやって元気に生きてるというので、「ああ、オレ被爆者二世だったことはよかったのかな」とその時に思いましたけどもね。そういう経験はありましたし、やっぱり落ちぶれたといってもソ連時代にアメリカと張り合ったところですから、アメリカに敵対心は非常に大きくて、逆に日本に対してはシンパシーがあるので、広島、長崎の専門家というだけでも期待は大きかったと思いますね。

中尾 そういう意味では住人と良い関係を築けていたのではないかと…

山下 まあ少なくともバッシングは受けてないから。わかりませんけどね(笑)。ロシア語でしたから。でも、どこに行っても歓待されましたから、それはお客さんとしてだったのかもしれませんけどね。僕以外もみんなそうですから。それはまあ悪い関係では無かったと思います。

中尾 少なくとも医療従事者の方々とは直接コミュニケーションをとってたんですか?

山下 もちろんです。彼らは毎年長崎、広島に呼んでいましたし、今でも来て交流や研修指導を継承していますから。もう何百人とずっと指導していますからね。

中尾 そのときからよい関係を長崎大と築いて…

山下 だから福島で原発事故が起こった後、多くの反原発の人たちがチェルノブイリの現地に入って聞いたときにみんなが答えたのは、日本に専門家がいるじゃないかと。日本人に聞け、山下に聞けと言ってくれたんです、向こうで。

中尾 ああ、そうなんですか!

山下 そういうふうなのは報道されませんけど、みんなチェルノブイリに行って奇形ができたとか心臓に穴があいたとかそういう話を聞くんですけど、本当の話は伝わってないんですね。だから向こうに行って聞くと、自分はそんな話はしていないと。日本にお世話になってちゃんとやったというのですね。

中尾 山下先生はチェルノブイリでは甲状腺がん以外のものというのは、健康影響は見られなかったと思っているんですか?

山下 はい、一般住民では、血液疾患もそうですし、慢性的に貧血が多いとか、鉄欠乏性貧血、あるいは高血圧、糖尿病、精神疾患、自殺、多いんですけど、これは全く私はそのものではなくて、事故による影響か、あるいは情報封鎖による影響か、あるいは他の、というのも間違いなくあると思います。同じ事を経験したのはカザフスタンです。カザフスタンも同じなんです。核実験を何回もやっていて、病気だらけだと言うんだけども、線量が評価されていないのに放射能のせいだというのは大きな間違いだ、というのは現地でも言い続けています。

樋口 最初、甲状腺がんに対しては原因は何であれ、何か多発が起こっているというのは結構先ほどおっしゃっていた細胞診が始まる前後にはかなり実感としてはあったんですか?

山下 ありました。

樋口 その時に、そこから線量の再評価につなげなければいけないということで、可能性はあるかもしれないけど判断としてはまだ何が原因かというのは、とりあえずは線量を再評価してからという感じだったんですか?

山下 はい。それで私たちがなぜおかしいと思ったのかというと、臨床的に甲状腺がんというのはだいたい思春期以降に出るんですよね。でも5歳とか6歳の子どもに出ていたんですよ。これはやっぱりおかしいとね。

樋口 ああやっぱ、そこの…

山下 潜伏期間が5,6年ですから、その当時0歳から3歳の子どもに出たというのはやっぱおかしいと思ったのが一つと、それから我々だけで線量評価はできませんので、欧米IARC(※1),NCI(※2)とかいろいろなところと協力して線量評価しました。ロシア、ウクライナ。そうするともうばらつくんですよ。ものすごく線量がばらつくので、それでもう、合意を取るのに3年ぐらいかかった。

※1 The International Agency for Research on Cancer, 国際がん研究機関:WHOの組織のひとつ
※2 National Cancer Institute

坂東 その前に内部被ばくを評価しないといけないので、そうすると1人ずつ…

山下 はい、全部聞き取り調査です。

中尾 そうだろうと思っていても、科学的に証明するまでに時間がかかるわけですよね。その間に住民の方にどういうふうに説明をされていたんですか?

山下 放射線の影響かどうか。

中尾 はい。わからない時。わからないけどそうだろうと思っているけれども、エビデンス的にまだ出てないときに…

山下 93年か4年に、そうやってわからないしそうじゃないと言ったら、ものすごいバッシングを受けて、保健大臣に説明に行きました。「ある報道が日本から専門家が来て重大な発言をしてる。ここの病気は放射線の影響ではないと言っている」と言われたので、いやそうじゃなくって、そういう誤解だという話をしに行きましたけども。まあとりあえず、93年、4年の当時は、すべてが事故のせいだと、放射線の影響で自分たちはみんな大変なことになると流布されていたんですね。

坂東 その流布って、市民に…

山下 そうです、そうです。

坂東 その流布したのは誰なんですか。

山下 あのね、多分政治家だと思います。選挙運動とかいろんな事が絡んでいたと思います。私たちその本をイリーンと言って旧ソ連の放射線事故の事を書いた本を翻訳しましたけど、イリーンさんの本を読むとよく書いてあります。「チェルノブイリの虚偽と真実、Myth and Truth」 (※)というのを書いてますけど、ほとんどもう政治問題ですね。

※ L. A. イリーン「チェルノブイリ:虚偽と真実」(本村智子、浜田亜衣子他訳) ウェブ版

坂東 政治の雑音を退けないと本当のことがわからないのはつらいですね。

山下 そうですね。そこは大変ですね。

中尾 そしてその間は、先生としてはそういったマスコミとかの対応に…

山下 私の当時の通訳をしていたイリア・ポーシンというのに聞けばよくわかるんですけど、彼がほとんどそういうのはやってくれていましたね、マスコミ対応。

中尾 そして、そういうあるということに対してそうじゃないと否定をして、バランスを取るじゃないですけど、誤解というか、何というんですか…

山下 我々もこれは現地へは100回行ったとしても、どうせ1週間か2週間しかいませんから、そこは住めばまた違うと思うんです。批判とかもね。どのくらいバランスよくみなさんが理解して、我々日本人がどういうステータスだったのかは、ちょっと正確にはわからないですね。

中尾 そこら辺はやっぱり、二の次じゃないけど、先生としてはちゃんと医学的なところが大事…

山下 人道支援ですけども、やはりエビデンスに基づかないとできないので、はい。

中尾 そのへんはまた別の角度からの視点が必要になると。

坂東 結局、日本の笹川財団がいくら入れたんでしたっけ、その…

山下 10年間で? 約40億円ぐらい。

坂東 それで実際に測定して、それ以前に生まれた子どもと以後に生まれた子どもで調査しましたよね。

山下 しました。それは95、6年。柴田先生(※)にお願いして、どういう疫学プランにすればいいでしょうかという話をしたら、それは当時の事故前後で生まれた子どもたちの同じ年齢になったときのがんの頻度を見れば分かるというので。それでゴメリ州で事故のとき0歳?3歳、事故の後に生まれた子どもたち、事故の時の妊婦さん、で調べたら、圧倒的に事故のときの0歳?3歳にがんが多くて、事故後の人はほとんど0に近かったというのが最大の結果でした。

※ 柴田義貞(放射線疫学):放射線影響研究所,長崎大学医学部教授をへて長崎大学特任教授

坂東 そうですね、あれがまあ一つ、線量のない段階での決定的なものですね。それであの後で線量評価をやったんですね。

山下 はい、そうですね。

中尾 わたしは科学と社会の間に関心があるのですが、チェルノブイリの時に日本のメディアとかは山下先生たちのご活動に対してなにかありましたか? いい意味でも悪い意味でも、誤解があったとか。

山下 ほとんどメディアに注目しませんでしたからね、我々は。

中尾 その頃は何もなかった。

山下 少なくとも叩かれたりとか変なことははなかったです。

中尾 むしろ、すごく活動されていて…

山下 そう、私は長崎から行きましたが、長崎、広島の被爆地からチェルノブイリを支援しているというので、それはもう応援団はいっぱいいましたけども、中央の新聞もずるいと思うのは、全くチェルノブイリのことは他人事でしたもんね。本当にほとんど取り上げてもらえなかったし、事故の後の毎年4月26日が記念日なんですけど、報道はほとんどされてなかったと思います。それくらい20周年以降は、非常に興味がみなさんなくなっていただろうと思います。

樋口 僕は分野とかの間の関係に興味があるんですけど、先ほどおっしゃったとおり、臨床で見ていくと。甲状腺をしっかり調べて。で疫学でも見ると。で線量ってのもあると。これは非常に異分野間の交流というか、それが全部くっつかいといけないというのをまさにこのチェルノブイリプロジェクトで体験されたと思うんですけど、やはりそういう各違う分野の専門家に話を持って行こうとか、話を聞きたいとか、どういう人に頼むかというのは、もともとの笹川財団で集められた人たちのネットワークとそれを通じてという感じだったのですか?どういうふうな形で異分野の方々と共同したのかということですね。

山下 私自身がというよりも、そういう骨組みを作ったのは、重松先生を中心とする大きなグループがあったんですね。わたしは実働部隊でしたからもちろん個別の仕事はずいぶんしましたけれども、与えられた任務というのは、とりあえず5センター作りましたから、そのゴメリとかベラルーシとかいろいろなところに。そうするとソ連が崩壊して国境ができた5センターのクオリティーコントロールをしろと。つまり質的な保証をしてあげないと病気の頻度を比較できないんですね。だからそれをまず責任をもってやるというのが一つと、二つ目はそこにいる人材をやっぱり育成しないといけない。我々はどうせ5年10年で辞めて帰るわけですから、そこに居る人たちの人材育成を大事に考えていたので、今おっしゃったような…

樋口 直接自分がというよりは、まず自分が与えられた仕事の範囲をということですね。

山下 はい。それがご指摘の疫学、物理、線量、医療、診断―治療はしませんでしたけど―そういう人たちが異分野とはぜんぜん思っていませんでした。みんな必要な人たちが集まってやっていると思っていましたから。

中尾 むしろ医療とか医学で一つという感じですね。

山下 はい、最終的なアウトカムは、いかに早期診断して早期治療にまわすかという事だったので、異分野という感覚は実はなかったんですよ。

樋口 でも面白いですね。そういう違ういろいろな方々が集まっている。

坂東 特にドシメトリーのとかそっちの方は、ちょっと感覚が違うのかなという感じはしますけど…

山下 はい、おっしゃるとおりで、線量の評価でも、線量があればすぐ健康影響があると思ってしまいますから、そういう意味ではあったかもしれませんけど、あまりディベートしたことはなかったですね。

中尾 むしろさっきおっしゃったように、国と国で違うというか異文化の方が、もしかすると先生の中でギャップがあったんですかね。

山下 そうそう、ベラルーシ、ウクライナ、ロシア、そうですね。でも、それはレベルによって違います。一般の住民はほとんど何も考えていないというか、同じです。でも思惑が入ってくるのは、委員長さんとか保健省とか国レベルになってきますから、そのへんの注意はしましたね。

 続く(現在も復興対応中のため震災以降のヒアリングについては継続中です。)

左から樋口、坂東、山下、和田、尾上、中尾
(写真撮影:小波、角山)


対談日:2018/8/10
対談場所:長崎大学原爆後障害医療研究所
インタビュアー:坂東 昌子、中尾 麻伊香、樋口 敏広、小波 秀雄、和田 隆宏、尾上 洋介、角山 雄一
音声書き起こし:小波 秀雄


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