放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(山下俊一先生)

山下俊一先生へのインタビュー 1/5

山下俊一先生 プロフィール

専門: 医師(内分泌・甲状腺)、放射線災害医療学、分子生物学
長崎大学名誉教授、学長特別補佐、福島県立医科大学副学長
内閣官房原子力災害専門家、元WHO専門科学官
1952年 長崎生まれ


序 被爆地長崎に生まれ育って

8月9日は原爆投下の日にあたる。
原爆被爆者の追悼慰霊祭などの行事にも参加した翌日、山下先生への本インタビューに臨んだ。

浦上教会から望む夕景

山下俊一先生(以下「山下」敬称略) この夏の時期には旧ソ連圏からの留学生や研修生らが、慰霊祭に参加しています。例年ナシム(長崎ヒバクシャ医療国際協力会)の受け入れ研修指導を毎年やっているものですから。当時原爆被災で医科大学と付属病院でも890余名が亡くなった一方でそのご遺族の方々も高齢化して、大変なんですよね。それから何より被爆者やご遺族と交流するうちの若い人もいなくて、8月9日は本当は大事な日なんだけども、なかなかそういうのも風化していますね。長崎でもそうですから。私は福島医大(福島県立医科大学)で学生に講義をするのだけど、永井隆のことを誰も知らないです。医学部の学生であってもですよ。

坂東 へえ、みんな永井隆に憧れたもんですけど

山下 ねえ、昔はみんな我々もそうだけども。

角山 あの小さなお家(※)に行きました。

※ 如己堂(にょこどう):永井隆が生前に療養していた住居。隣接して長崎市永井隆記念館が建設されている。

Nyokodou 2009A

如己堂

山下 あそこに石碑があったでしょう。

角山 はい。

山下 なんて書いてあったかわかりました?

角山 いや、なんかよく分からなかったですけど、写真をいっぱい撮ってきました。

山下 「玉の緒の 命の限り 我は行く はるかなる真理探求の道」と書かれてあって、自分が原爆被災した後に、どういう思いで自分の体をあそこに臥床して、自分自身を白血病の標本としていったかということの基本理念が書いてあるんです。もともとこの医学部に石碑はあったんです、グビロが丘に。それを新しい碑が建った時に、 如己堂の横に移設したんですね。返してほしいんですけど、もう返してもらえないようです。本当は医学部にあった方がいいんですけどね。

中尾 山下先生は1952年の長崎のお生まれですが、長崎のどのあたりで?

山下 城山町です。爆心地から500メートル。

中尾 やっぱりお生まれになった頃から、原爆とか被爆というものがすごく身近にあったような・・・

山下 そうですね。城山小学校が遊び場でしたから、原爆で被災した後の防空壕とかがれきとか建物がある中で遊んでいましたので、原爆というのは身近でしたね。

中尾 それに対して、許せないとかいう気持ちは・・・

山下 そんな気持ちは全くないです。むしろ私は昭和27年生まれで7年後ですので、どちらかというと日本が独立して貧しい中でも復興の兆しがあった頃でしたので、まあ毎日外で遊んで楽しいとかいう、そういう感じでしたね。ただ私自身がカトリックです。父方は代々隠れ(今の呼称は潜伏)キリシタンで、母はある意味結婚のためにキリスト教に改宗したという形なんですけども、そういう中で育ちましたからちょっと異質だったんですよね。
 理由は、みんな城山小学校に行くんだけど、私だけは聖マリア学院というできたばかりのカトリック系のミッションスクールに行ったので、そこでちょっと皆さんと違う違和感がありましたし、それからその学校は聖マリア学院といってアウグスチノ修道会が運営していました。外国人の修道士さんばかりなんですけど、そういう中で育ったので、当時はあまり自覚しませんでしたけど、キリスト教に対する偏見とか先入観とか差別がまだあったんですね。

中尾 クリスチャンに対する差別ですね。

山下 そうです。

坂東 そんな、戦後までまだあったんですか。

山下  あったんですね。だって永井隆の原爆被災の11月に読んだ弔辞(※)の中に、やっぱり強くそのことが表れていますよね。「お諏訪さんを信仰せずに耶蘇教を信仰したので、罰が当たったんだ」と。原爆が浦上に落ちた理由は天罰だと言われて差別されたんですね。永井隆さんはそれを非常に気に病んでいらっしゃって、ですから私が子どもの頃もそういう違和感があったんですね。それをあまり意識しなかったんですけど、おくんちとか、お諏訪さんとか、精霊船とか、仏教・神道に帰依するような宗門改めの名残りなんですよね。それがあの、やっぱり寺の宗門改めで毎年1月には踏み絵を踏まされてたわけですから、そういう流れが染みついているわけです。ここ長崎の浦上が私のルーツなんですよ、浦上が。浦上のルーツのことをきちんと小説にしたのが遠藤周作です。「沈黙」のあとに彼が書いた「女の一生」という小説の中で、そういうことを細かく書いていますよ。こどもの頃はそういうことはわかりませんでしたが、今思い返すとそういう中にいたんだなあということがよくわかります。

※ 長崎原爆死者合同葬における永井隆の弔辞(1945年11月23日)

中尾 具体的に差別というのはどういうことがあったんですか?

山下 例えばですね、やはりバラックがあったんですね。貧しい。東京で言えば蟻の街とか。ここもマリア園と言って海星学院というのが南山手にあるんですけど、あそこには孤児院(※)があって、こういうことを慈善事業としてやるのはキリスト教関係者ですから、そうするとあそこの子どもたちは親が居ないんだとかね、それから貧しいとか、あまり付き合ってはいけないとかそういう話しがずっとあったんです。とくに浦上地区はご存知かわかりませんけれど屠場、今で言うと豚とか牛とか皮革を取るところがたくさんありまして…

※ 児童養護施設マリア園

小波 このへんは被差別部落があったんですね。

山下 そうですね。これはキリスト教徒を、えた・非人ですかね当時はね、そういう人たちが監視をするという、つまり下手人ですね。つまり長崎奉行の手先として取り締まりをする人として、そういう人たちを周囲に配備していた。だから隠れキリシタンが隠れられたんだと思います。その人たちの中にはキリスト教徒がいたと思います。だって浦上一村全部隠れキリシタンってあり得ないでしょ、250年も。神父さんもいなくて。指導者がいない中で、自分たちでこうやって守り続けたというのは一言でいえば奇跡なんですけど、そういうことを許した環境がやっぱりあった。
 だから差別と被差別というのは、実際に私は自分自身が惨めな思いをしたことはありませんけど、そういうのがずっと染みついていたみたいで、ですからあまり信仰の話とか、それから戦争の話はまったくなかったんですね。うちの親父もまったくしませんでしたし、母親もまったくしなかった。原爆とか被災もそうかもしれませんが、過去の話をする人はまずいなかったですね。前向きに生きると言うことが一番。それからどんなことがあってもへこたれないというかな、叩かれても起き上がると。そういう生活の子ども時代を送ってきたというのを記憶しています。

中尾 なるほど。だからそういった中で、永井隆さんがクリスチャンの方々のシンボルになっていったんですね。

山下 シンボル、そうそう。彼はね、申し訳ないけども、われわれにとっては聖人に近いんだけども、多くの方にとっては米軍の手先とか、あるいは原爆の正当性を担保したとか、いろんなことで非難されたんですね。ものすごく非難されて、で私は永井隆を尊敬してきましたので、そういう意味では、如己堂のあのへんは、私の遊び場なんですよ、山里小学校とか城山小学校とか遊び場で、小さいときから教会にいくので当たり前でしたけど、そのことで差別される、蔑視されるんですね。それは昔からあったと思いますね。

中尾 物心つかれたときにはもう永井隆さんはいらっしゃらなかったけれども、やはり言葉を聞いて…

山下 まあ聖マリア学院という学校に行くこと自体がレッテルだったんですね。でも、私が非常にうれしかったのは、宣教師が偉かったんですね。修道士もそうだし、ほとんど外国人でしたけどまさに奉仕の精神ですよ、かれらは。そのおかげで宗教教育を受けてきましたので、他の人と少し違ったのは、将来というか天国に貯金をするということを小さい頃からずっと教えられてきて、見えないところでよいことをしましょうとね。だからそういうのは当たり前として育ってきたので、他人の目を気にするというよりも絶対的な神の目を気にするという風な教え方を受けてきたというのが、子どもの頃の私の宗教教育だと言いますか、バックボーンだったのかもしれませんね。

中尾 それが現在までの山下先生のパーソナリティーを作ったんですね。

山下 それは大きいと思いますね。

中尾 あと原爆の被爆の話もなかなかされないような状況だったということですけど、クリスチャンの被爆者とそれ以外の被爆者との間で温度差があったようなことは…

山下 わたし個人的には経験はないですね。中学校までが聖マリア学院で。しかし、もう無くなったんですよ、カトリックの信者が少なくなって中学校閉鎖ーだから私の母校は小学校しかないんですけども、それで公立高校に入って、初めて大学の受験勉強をしなければいけないことを知りまして、最後に医学部に入りましたけど、医者になろうと思ったのは、おそらくそういう憧れがあったんですね。

樋口 憧れというのは永井さんに。

山下 そうですね。

樋口 ついて聞いたというのは、やはりそういうカトリックコミュニティーの中でいろいろ聞いたと言うことなんですか?

山下 それも大きいと思います。

中尾 影響を特に受けた永井さんの本とかはありますか?

山下 はい、うちにね、父親が永井博士自身からもらったという色紙が一枚あったんですよ。「豚のしっぽも一役」というのが(笑)、豚の絵を描いて、「尻尾も一役」ってあるんですよ。それが聖人君子的な永井隆とはちがって、悪い子は地獄に落ちますよと、ちゃんと手を洗って本を読みまさいとか、そんなことを子どものころに言われてきましたから、なんとなく心の底に自然と永井隆というのが入っていたんだと思います。

中尾 神様のような聖人のような…

山下 というような感覚はなかったですね。まだ永井隆のことをよく知っているという人が周りにたくさんいましたから。

坂東 日常生活の中でね?

山下 そうそう、普通のひとなんですよ。だから特別視はまったくされていませんでした。息子さんの誠一さんとか、(次女の)茅乃さんとかもよく知っていますし、お孫さんの徳三郎さん(※)もよく知ってます。そういう関係で育ってきましたから、あまりそういう特別視をしなかった。

※ 永井徳三郎:長崎市永井隆記念館館長

長崎平和公園「長崎の鐘」

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