放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(山下俊一先生)

山下俊一先生へのインタビュー 3/5

医学部時代のこと

中尾 そういう中で、医学部は6年間だったんですかね?そこでどのように専攻を決められていったんですか?

山下 もともとはですね、最初に言ったようにシュバイツァーにあこがれていましたから、熱帯医学に興味があったんですね。もうこれはおっしゃるとおり、伝統があって(長崎大学が)アフリカに行っていましたので、海外には興味があったんで、そういう所に行きたいなというのは漠然と思っていました。ただ、卒業する前に、どういうわけか今の家内と恋愛をしましたので、そういうリスクはなかなか負えなくなっちゃって(笑)

中尾 お相手は地元の方ですか?

山下 えっと、まあ大学の医学部の先輩なんです。同じテニス部だったんです。部内恋愛は禁忌だったんだけども。それで卒業してすぐに結婚したものですから。そのときに家内は循環器第三内科に入っていたんで、内科としては一、二、三とあって、いい先生たちが多かった第一内科に行きまして、そこが内分泌とか代謝とか、膠原病リュウマチとか神経とか消化器とか。

中尾 ではかなり奥様の影響で内科に行かれたという。

山下 家内の影響というよりも、熱帯医学にしても将来何かするにしては、やはりすべての医学の基本は内科ですから、外科というのは全く考えませんですね。外科は馬鹿が行くところだと思っていましたから(笑)。もう頭を使わないで。というふうに我々の頃は、決して外科を軽蔑しているわけではなくて、外科というのはどうしても職業柄、職人芸になっちゃうんで、やっぱり少し頭を使いたいなと。そういうことで内科に行きました。

坂東 その頃から、お二人でずっと共働きというか。

山下 ええ、養ってもらってましたけど。今もそうかも(笑)。

中尾 それからずっとご一緒に連れ添っていらっしゃるんですね。

山下 もう40年になります。

中尾 そのほかに大学時代に印象に残っているようなことはありますか?

山下 ストライキが終わって、私たちにとって一番重要なのはやっぱり解剖なんですね。はじめて死体を扱う。だから本来ものすごく厳粛で、医者になるための最初のファーストステップなんですが、その解剖のご遺体に対して、不遜なことがいくつも起こったんです。ストライキだから解剖の途中で授業がなくなるとか。そうすると解剖中のご遺体をおいておくとカビが生えるんですわ。で、40体も50体もご遺体がある中で、解剖をまじめにやっているのはもう何人かしかいないんでね。みんなストライキやってるんだから。こんなの許されないですよね。
 で私は怒って、「こんなんじゃ学生としての本分を果たせない」ということで、毎年解剖慰霊祭というのがあるんですけども、その時に学生代表でご挨拶させてもらったんですけど、まさに「死せる諸葛、生ける孔明を走らす」というので、我々はやはり死者から学ぶ事が多いという話をしたら、たまたまその話を聞いた薬理学の上野教授という教授が、戦後間もない頃に入学した自分たちは解剖という授業はなかったと、骨学とかなんとかは、ここの医学部の敷地を掘って骨を見つけてそれで勉強してたと。そういうのを聞いて、ちょっともう、我々はまじめにやらんといかんなあと、強く思ったのはありますね。

中尾 解剖の授業というのは2年生ですか?

山下 当時は3年生でしたね。2年間教養学部でしたから。今はもう1年生の後半から解剖をやっていますね。本当に医者になるための、最も重要なところです。長崎は幸いなことに剖検の数が多いので2人で1体なんですよね。他のところはなかなかそうはいかないです。

中尾 命に対するリスペクトというか。

山下 そうね。われわれ死体を見るということは、あるいは生きた人にメスを入れるというのはやはり医者の特権ですから、そういう意味ではきわめて大きな仕事ですね。これは欧米に行くとよく分かることなんですが、日本ではなかなか死体は報道されませんよね。東日本大震災でもそうですけど。死というのは忌み嫌われるものになってしまってて、やっぱりこれはおかしいなというのは当時から思っていましたね。だから我々の医学教育では、死は敗北だったんです。いかに生かすかと。生かすことが中心の教育を受けてきた中で、私は非常にそれに疑問を持っていまして。人は全員死ぬわけですから。だから死を前提で医療をすべきだというのは、当時から思っていましたね。

樋口 やはりそれはカトリックという価値観の影響もあったんですかね。

山下 だってみんな死ぬと思っていましたからね。だから私は13歳かそのへんでそのことに気づいたときに、みなさんと老若男女と会ったり話したりすると、骸骨に見えたときがあったんですよ。これはオレは病気かと思ったんです(笑)。でも、ヨーロッパとかいろいろ回って思うけども、海外の教会には必ず骸骨があるんですよ。だってみなさん、みんな死んだらそうなると思っているからね。だからあたりまえなんです。死が隣り合わせな教育を受けているのね。日本は死を忌み嫌うから、ものすごく断絶があって、くさい物には蓋をして長いものに巻かれろじゃないけども、そういうものをきちんと議論する場がないなというのはとても不思議でしたね。

中尾 今も日本はそこまで変わっていないですか?

山下 ぜんぜん変わってませんよ。東日本大震災でも全くそんな場面はなかった。もう欧米ではそんなんバンバンですからね。死体が流れているの。

中尾 やっぱり宗教観とかが…

山下 大きいと思います。それを感じたのはやっぱりキリスト教、カトリックが死を前提で、宗教はすべてそうだと思うのですが、教育の中に自然に入っていたんだと思うんですよ。幼児洗礼を受けて、キリスト教の話を受けて。だからいい意味でも悪い意味でもそういう倫理観とか、善悪の判断とか宗教というのは人間の基本だなという気がしますね。だから学生にも授業でいつも言うんです。すると「先生の話はいつも哲学的だ」。いや哲学じゃないと俺はちゃんというんですけど、学生さんはわからないです、なかなか。

中尾 なるほど、ありがとうございます。それでお医者さんになられてから、なにかこう…

樋口 そのまま、長崎大学に。

山下 はい。第一内科に入りまして。

中尾 そのまますんなりといかれて…

山下 そのときにも、ある意味反骨精神なんですけど、ヒエラルキーがすごいんですよ、医者の世界は。縦社会。なんでも教授が偉くて、医局人事でも医局長がある日突然あなたはそっち行けということでローテーションするんです。ある時島に行けと言われます。こんなのやっちゃいられんと思って。

坂東 ええー、そうなんですか!

中尾 やっぱり反骨精神で…

山下 それで、当時はストライキの影響もあって、昔からの教授の権限を削ぐというので、臨床の大学院がみんなボイコットしていたんです。大学院は基礎だけになった。

坂東 はあ…

山下 「はあ」なんですよ。それで私はこれはひどいと思って、臨床系大学院の復興をさせたんです。それで2年の研修が終わった後、第一内科の大学院に入ったんです。まさにそれは隘路というかエアポケットみたいだったんです。教授の高岡先生がやめて次の教授が決まるまでの間だったんで、教授不在。そのときに。たまたま偶然ですけどね(笑)。

中尾 今、さらっとおっしゃいましたが、大学院を復活させたなんて、そんな簡単に動くのですかと思うんですけど(笑)。

恩師との出会い

山下 臨床の大学院を復活させまして、医学部長に交渉して入ったんです。で、その時も喧々諤々。何が喧々諤々かというと「おまえがまた勝手なことをして、自分だけで博士号取ろうなんてそんな安易な考えで」って言われるわけですよ。オレはそんな博士号とりたくてやってんじゃなくて、こんな猫の目人事クルクルなんかで勉強できないじゃないかとね。ちゃんと大学で勉強できるような体制を作らないかんということで入ったんで、4年間でだから博士号取らずに辞めたんです。退学。
 そしたら、当時長瀧先生(※)が東大から来られて、ものすごくスマートでしたもんね。長崎大学の方はみんな野武士の集団みたいで、もうみんな好きなことをやっていましたから。田舎のほうが自由だったんです。それを長瀧先生が系統立てて組織立ててされて、まあ少し買ってくれたんでしょうね、「おまえはアメリカに行け」と「留学したらどうか」と言われて。人生設計では子どもも当時3人いましたし、車も買ったばかりで借金もあって、どうしようかというときにアメリカに行けと言われて、家内に相談したんです。そしたら「行こう、行こう」ちゅうんですよ(笑)。子どもがね、5、3、2歳やったかな。(樋口「そんな簡単に」)それで家内がこう言うんだったら行くかというんで、1984年、ロサンゼルスにいきましたよ。それがある意味、私の人生を変えたと思いますね。

※ 長瀧重信 長崎大学医学部教授。同医学部長、放射線影響研究所理事長、国際被曝医療協会会長など歴任

樋口 ちょっと戻ってよろしいですか?その長瀧先生がこちらにいらっしゃたときは、もう放射線のことについて…

山下 私は大学院2年生だったんですよね。当時私は尊敬した先生の仕事をしていたんです。その先生もまた偉かったんでしょうね。「おまえは大学院に入ったんだから、主任教授の仕事をすべきだ。オレの仕事はいい。長瀧先生の下で仕事をせい」と。それはもう立派な先生で、それで「わかりました」ってだけで、俺も何もわからんではいと言って、長瀧先生のまったく違う分野での甲状腺の自己免疫疾患の仕事をしました。それが始まりです。

中尾 やはり仕事の仕方がすごいとか、長瀧先生は何が違ったんですか?

山下 一番びっくりしたのは、赴任されて3日目に医局会という会議があったんですね、医者を集めて。それが終わった後で呼ばれて、「実は自分は日本医師会で講演をしてきたけども、その後抄録を書かなければいかん。君こういうタイトルだから、急がないけどちょっと下書きしてくれ」と頼まれたんです。まあ下書きだからいいかなと思って、放っといてたんです。そしたら翌日、「君出来たかね」と言ったんですよ。出来たかって、びっくりしちゃって、これが東京時間かと思った(笑)。長崎だったらほっといていいのに、これはもう言われたらすぐしなくちゃいけない。びっくりしまして、しょうがないから頑張って書き上げて持っていったら、それから仕事がどんどん来るんですよ。下書きの原稿の仕事が。でも今思えばそれが有難かったんですね。そういうふうな依頼原稿を回してくれたというのがねえ。私自身も、初めて自己免疫疾患とか放射線の勉強を始めるわけですよ。それについていろいろ調べて、それで途中から英語の原稿を書けと言うわけですね。教科書販売だと。大学院生ですよ?大学院生に英語の原稿の下書きとかねえ。「君なかなかよく書けてるからこれで行きたまえ」って、「いや先生オレ自信ないですよ、こんなの」(笑)。

中尾 長瀧先生にしごかれて、長瀧先生がいなければ今の山下先生はないというような。

山下 ないですよ。多分世界的な仕事はできなかったと思いますね。

坂東 書くいうのはものすごい勉強になりますよね。

山下 なりました。

中尾 事実関係ですけど、大学院を4年でお辞めになられたというのは、長瀧先生がいらっしゃった後の話ですか?

山下 そうですよ。長瀧先生は何も言いませんでした。ただこの男を惜しいと思ったのか馬鹿だと思ったのか、アメリカに行けと言いましたから。


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