研究者・専門家へのインタビュー(山下俊一先生)
山下俊一先生へのインタビュー 2/5
悪ガキだった少年時代
中尾 けれども憧れの対象みたいな、むしろ身近な、「自分もなりたい」というような…
山下 まあ、なれるかどうかは別にして(笑)。それ以外に、私がこどものころ読んだ本ではシュバイツアーに憧れました。アフリカの聖人で、アフリカに行きたいというのは、子どものころからなんか知らないけど、やはり異国の地に憧れたんです。それはやっぱり、宣教師が外国人だったから、外国人に教えられたというのが大きかったと思います。
樋口 シュバイツァーについての本を読む機会があったと。
山下 はい。うちの親父が買ってきて、それを読んでましたよ。易しい小学生が読むような本だったと思います。今はうちにないかも知れないけど。
中尾 それが先生の人格形成というか、若い頃ですごく影響を受けた出来事というか。
山下 はい。それともうひとつ私が伝えたいのは、シスターの影響が大きかったです。当時、カトリックの学校ですから先生方はみんなシスターなんですよ。あの黒い服で。異質じゃないですか、やっぱり。今は普通の世俗的なあれですけど、当時はあの時代に、このへんを歩いているんだから(笑)。シスターの影響は大きかったですよ。
樋口 大きいというのは、具体的に?
山下 実はわたしね、小学校時代は悪い子で。
坂東 えっ?
山下 こんな冷静な話をするというより、手がはやくて喧嘩をばかりしたり(一同驚き)、まあ現代版丹羽先生です(笑)(※)。非常に…、だから通知表見ても一目瞭然、こんな悪い子はいないとかね。しょっちゅう親は学校に呼び出されてたんです。
※ 丹羽大貫 放射線影響研究所理事長、スタンフォード大学大学院修了、京都大学医学部助手など歴任
中尾 「はだしのゲン」みたいな…
山下 知らん、そりゃ(笑)、知らんけど、記憶にあるのは私やっぱり、幼稚園3年行ったんだけど、その頃は貧しいからみんな弁当を持ってくるんです。給食なんかありませんからね。うちはもっと貧しかったかも知れんけど、人の弁当を早食いして食べてたんです。
坂東 そうするともう、お昼にはないから。
山下 そう、そうすると人の弁当を食ってるから、お昼時間の前になると、こう縛られて木に(一同笑)…というふうな記憶があります。
中尾 やんちゃな悪ガキみたいな。
坂東 信じられへんねえ。
樋口 それはシスターがいろいろ矯正しようとしたんですね。
山下 そうそう。
中尾 面白いです、それ。神様が見ていると思いながら、そういうことをできちゃうというのは。
山下 まったく考えてないんです、要するにね。私は今反省してるんだけど、もうちょっとまじめにやればよかったと。不真面目というのではないけど、善悪の判断をしっかりできていなかったと思うんですね。自分の感性とか、好き嫌いとか、欲しいとか、そういう欲望が中心で他人の子供の弁当を食べてた。
中尾 それはすごく興味深いんですが、善悪の判断というのはいつごろになったらできたんですか?
山下 今思うとね、小学校から中学に入って12,3歳のころだったと思います。このままではいけないと思ったんです。
坂東 え、自分で思わはったんですか?
山下
あのねえ、喧嘩ばかりしていましたから、当時は番長と呼ばれていたんですね(笑)。今思えばほんとに悪ガキだったんで、こんな話し書かないでくださいよ(笑)。
それで、中学に入るとクラブ活動があったんです。で、軟式庭球部に、ほんとは野球をしたかったんだけど、軟式庭球部というのに入らされてしまったんです。あなたはそんな力があり余っているから運動でもしなさいってシスターから言われて。そしたらゲームというのはルールがあるわけです。喧嘩はルールないんです、相手を負かせばいいから。一撃必殺でとにかく早く手を出したほうが勝ちなんです。
そういうふうなのを学ぶ中で、これはちょっとまずいなと思って。力だけでは勝てないし、ある条件というかそういう土俵で戦わなければいけないということを学んで、これはやっぱり勉強もせんとと思ったんです(笑)。
親父が若いときに、私が生まれてすぐに胸郭形成手術をやってるんですね。非常に体格のいい親父で、肺結核で死に目にあって、この子を医者にしたいと思ったみたいなんです。それでシュバイツァーの本を読ませたりとか。
中尾 やっぱり親の影響があって。
山下 そうですね。わたしはそれは別に嫌でもなかったし、永井隆のことは尊敬していましたから、それで受験勉強をせざるをえない状況になって、長崎北高というところに行ったんですけど、勉強合宿ばっかりしとって、できて5年目ぐらいで私は5回生なんですけど、そうしたら朝から晩まで勉強ばっかりですもんねえ(笑)。そんなもう、たまらんなあと思ったけれど。
紛争の中で大学入学
中尾 そうやって中高は真面目に勉強されて。
山下 高校ではね。それがまた、あんまり言えませんけど、大学に入ってから大変でした。もう京都とか東大では学生運動終わっていたでしょ? 72年、3年あたりですかね。長崎大学はまーだやってたんですよ。入ったらなんのことはない。(坂東「ああ、あの時代ねえ」)そいでねえ、まだやってたんですよ。中央から波及してきて、大学に入ったら、「一学年二年制反対」、「医学部長不正入試糾弾」とかなんとか看板がいっぱいあって、中核、革マル、大変なのが一杯いてわいわいやっているわけですよ。私は自宅から通えるということで、小中高と来て大学に入ったらそんな状態なんですよ。あこがれて入った大学がまだ学生運動でしょう。授業なし。しかも昔は教養学部って、ますます勉強しないでしょう。教養学部のドイツ語、哲学とかあったけどなんも覚えてませんよ(笑)。もうしょうがないから、部活動ですよ、部活動。テニス(笑)。
中尾 そんなに勉強はできなかったんですか。
山下 できなかったですよ。2年間本当に。
坂東 あの時代そうですよねえ、みんなそう。
中尾 授業が妨害されちゃって?
山下 そう、おっしゃる通りです。妨害されちゃって、「教授会反対なんとか」とかね。教授が悪みたいに言われてて、私はノンポリでしたからそんなの全く無関係でテニスばっかりしてたんです。そしたら何と言われたか、学生の仲間から「スト破り」。みんな講堂でストライキをやっているのにオレだけテニスをやっているというので…
中尾 でも面白いですね。他の同期の学生はみんなそういうところにいったのに…
山下 そう、みんな早熟だったんでしょうね。そういうのに興味があったんでしょうね。ポリティカルなことに。
中尾 むしろ先生の方が早熟で、そういう所から距離を取ったというふうにも考えられるというか。普通だったら流されちゃうんじゃないかと思うんですけど。
山下 あまりそういうのに興味をも持てませんでね。何回かスト破りって学生から糾弾されましたもんね。
坂東 丹羽先生(前出)と似ていますね。丹羽先生も、ストライキのデモをしている学生の前にいって「おまえら何してんねん」みたいなことを言って批判したら、それで目つけられてとか言ってましたね。
山下 だから仲間とか、前後の先輩たちからほんとに嫌われたと思いますね。だって先生に直訴して、オレは大学に入ったんだから授業を受けさせてくれと言って、「わかった」って先生が来て授業をしたのが、反対派の学生らが駆け付けて来て「わー!!」って言われたら先生が逃げていくんですよ(笑)。
坂東 あの時代、佐藤勝(※)さん、ひょっとしたらノーベル賞もらうかもしれない天体物理学者が、湯川秀樹先生の授業を「やめてください」と言ったら、湯川先生は、「僕はひとりでもやる」って言わはったんですよ。
※ 佐藤勝彦 東京大学名誉教授、京都大学大学院修了、京都大学理学部助手など歴任
山下 逆でしたようちは。学生が言ったのに先生が逃げていったんだから(笑)。
中尾 妨害にあって、暴力とか振るわれたらねえ。
山下 そういうのがあって、罰が当たったと私は思うんですよね。学生時代真面目に勉強せずに医者になったから、ずーっと卒業してから医者の勉強をしよる。
中尾 すごくマイペースでいらしたんですね。
山下 というよりも、あまり周りのそういうことが気にならなかったですね。