放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究者・専門家へのインタビュー(安斎先生)

安斎育郎先生へのインタビュー 5/6

福島原発事故後の活動

角山: 原発事故の後に、例えばその学者会議が積極的に何かアクションを起こそうということはされていたんですか? 

安斎: そうですね。原発のシンポジウムは毎年やっていて、あの事故の後は私も呼ばれたりすることはあるんですけれど、70年代は日本科学者会議で原発問題のシンポジウムをやると電力会社が会場を貸さない、つまり福井の公民館でやるというと訴えて公民館の使用を禁止するとかね。それで我々が裁判で訴えても負けますしね。そういう科学者会議の活動が電力会社なんかにかなり強烈に作用していた時代ほどの敵対関係〔が今はない〕というのかな。今はそれほど重んじられていないのかな(笑)。

中尾: それで福島の原発事故以降に行われていたことについてお伺いしたいのですが、まず3.11のときに何をお感じになりましたか?

安斎: 2時40何分だっけ?問題が起こってそのとき僕は京都のある喫茶店にいてメールをチェックしていたらめまいを感じたのでおれも歳かなと思ったら(笑)、ふと見たら絶対揺れているわけね。だけどそんな事態になっているとは思わず家に帰ってテレビを見たら、6時頃に時事通信かなんかから電話取材があってそのときに「先生は原発を批判してきたけど、今原発が容易ならざる事態に直面しているようだが、そういう技術者に伝えたいことはありますか?」と言うから、「隠すな、嘘つくな、過小評価するなと伝えておいてくれ」と言ったんです。

 

角山: でもそれ全部伝わっていなかったようですね(苦笑)。

 

安斎: その言葉がとっさに出たのが偉いと思っているんですよ(笑)。

 

角山: 過小評価も甚だしかったですよね。

 

安斎: 未だになんとかして覆い隠そうという傾向が明らかなんだけど、これは申し訳ないと言う気持ちが真っ先だったんです。僕は批判の側に身を置いてきたから、別に原発推進に手を貸した人々と同一視されるいわれはないけれども、結局原子力の専門家なんてこの国で一握りで、その人たちしかわからないようなことで、我々が原発路線に対する抵抗を十分に築くことに貢献できなかった、我が身を恥じて非常に申し訳ないという気持ちで、すぐにでも飛んでいきたかったですよ。1973年から浜通りの早川篤雄、楢葉の宝鏡寺の住職なんかと原発反対の運動をやってきて、75年には国を訴えて裁判もやっていたから、すぐにでも飛んで行きたいと思ったんだけどマスコミ攻めがすごくて、夜討ち朝駆けで電話がきて、4月16日の僕の誕生日だけはもしかすると僕の奥さんが飯を一緒に食おうと言うかもしれないと思って空けといたら、もうその日しか行けなくなって、評論家の江川紹子さんが「私も連れていけ」と言うので、一緒に行ったんですよ。だから5週間後ですよね。その間はもう講演とか取材とか、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、大忙しで、もうまんじりともせず申し訳ない思い。それが結局前橋かどこかで講演をしたときに僕が「申し訳ない」というくだりを語るときに、泣いちゃったんですよ舞台上で。それぐらいずっとひっかかってたんですね。

 

中尾: それぐらい、ジェネラリストとなってもやはり自分は原子力の専門家だというアイデンティティを持たれていたんですね。

 

安斎: それはそうですね。

 

中尾: 自分は危なさをよく分かっていたのに、抵抗しきれなかった悔しさですか?

 

安斎: そうです。これに書いてある、まさに原発が事故を起こしたときに冷やす水が無くなったらおしまいだというので、この当時アメリカのロフト計画という実験で、それは実際働かないことがあるということが示されていた、ということをここでも述べています。それで実際それが起こっちゃったわけね。水が抜けてしまって、今はもう原子炉の底までぬけちゃって。だからスリーマイル原発は底が抜けてなかったから水を満たして作業できたけど、こっちはできないのでこれから今どんどん潜っている最中で、大変ですよ。40年で解決なんてとてもじゃないけどできない。チェルノブイリは上から石をかぶせただけで、あそこは核爆発だから核燃料が吹っ飛んじゃったからあれだけど、こっちはこってり残って今マグマとなって沈み込みつつあって、だから下にこれ以上潜らないという底を作らないかぎり、上に蓋をしただけじゃ大変ですね。地下水脈とかをつかって水蒸気起爆を起こしたりする恐れもあるかもしれないし、なんせ太平洋にあるからいずれまた太平洋プレートの潜りこみでとんでもないことが起こりうるので、とってもやっかいですね。

 

角山: 地球の中に返してしまうという発想はダメですか?マグマに溶ければ、どうせマグマはRIだらけだという話だそうですし。

 

安斎: だから放射性物質も潜り込むこっち側に埋めとけば、いずれ潜っていって、何億年か先にはあり得るかもね。

 

角山: 16日はどこまで近づかれたんですか?

 

安斎: 原発7km地点ぐらいまで。いわきに入って早川篤雄さんというご住職の運転する車で、割れ目がある大丈夫かと思うような道路を通って、浪江を抜けてずっと北上していったんです。だから放射能のレベルはここの1,000倍ぐらいのレベルに達するわけね途中から。1分間 [注:1時間の誤りか] あたり強いところで100μシーベルト。ここは今0.05μシーベルトぐらいだろうけど。所によって上がったり下がったりはあるけれど。すさまじいです。そういう所に行きながらやっぱりね、自然が綺麗なんですよ。桜が咲いて菜の花が黄色で満開で、こぶしの花が咲いていて。僕は故郷が福島だから、4歳から9歳までは二本松で暮らしていたから、ふるさと福島の景色というのは昔見たデジャブではないけど、なんとなくしっくりくる風景なんですよね。そこに美しい花が咲いていて、時々はぐれた犬が行き場を失ってひと気のないところをうろついたりしていたけど、それで誠に悲しくなってますます申し訳ない気持ちになって、なるだけたくさん福島に来ようと思って、その後今はできるだけ一ヶ月に1回3日間は、まあ雪が降っていると実態がつかめないからあれだけど、なるべく行ってね。年に7~8回かな。一回行くごとにこういう報告書を作るんだけど。フルカラー40ページ弱のものを作っていて。2週間ぐらいかけてね。

 

中尾: 贖罪意識で福島に通われていると以前におっしゃっていたのですが。

 

安斎: うーん、責任、申し訳ないという気持ちが一番で、せめてわれわれができるのは、放射線防護学が一応専門だから、実態がこうだと把握するだけじゃなくてどうしたら被ばくを減らせるかというのを具体的にその場でやってみせるというね、実態を把握して、能書きを述べるだけではなくて、そこで除染というのはこうやってやるんだと。まあ放射線を防ぐ方法は、除染するか、遮蔽するか、逃げるか距離を取るか、そこにいる時間を短くするかの4つしかないんで。それを具体的にどうやればいいのかってその場でやってみせないと。

 

中尾: ではむしろそれは市民への情報提供というのがまず第一にあって、自分の科学者としてのというよりはむしろ社会貢献活動というような意味合いが強かった。

 

安斎: 結果としていくらかね、被災者の不安に向き合ってそれをすこしでも減らすリスク低減に役立てばいい、放射線防護学なんかをやっているとそういうことしかできることがないからね。もちろんこの国の原子力政策を徹底的に批判するのは別でやるとしても、現場でできることは、決してあなたたちが原発を引き受けてきたからこうなったんでしょなんてことは絶対言わない。私自身が悪かったと。一方で福島の人はこの黒い部分ぐらい浴びていて [注:報告書の中の世界の高自然放射線量地域と福島の放射線量を比較するグラフを指して] 、ヨーロッパの自然放射線が高いところはたくさんあるんだけど、だからこういう事実関係もお伝えして、そんなに福島にいたらもう放射線かかるほどのリスクを抱え込んだわけでは無いんですよと言うことをお伝えすると。

 

中尾: なるほど。だから自分たちの研究のために測るとかいうのではないんですね。

 

安斎: 一切無いですね。幸いこの年になると研究論文を出す必要も無いですしね。

 

中尾: 何か福島で印象的だったこととかありましたか?

 

安斎: そうですね、とにかく原発そのものは実態を知るにつれて、すさまじい状況だということは、ますますもって非常に深刻に問題をとらえていますね。それから原発周辺の帰還困難区域といわれた地域は、あの直後はそれこそ1時間あたり100μシーベルトもあるような状況だったけど、帰還困難区域に指定された途端に除染もしなくなってしまったんですね。つまり人が住んでいないところを除染する必要もないってことでね。今やっているのは、大熊とか双葉町の帰還困難区域に廃棄物の中間処分施設だけ労働者が働いているから除染してあるけど、民家があるところなんかは全く除染してないのでいまだに帰還困難区域であり続けているっていうことね。それで現場に立ってみるとやっぱりこんな広大なところから人っ子ひとりいないように全員追い出したかっていうね、東大の原子力工学科の頃はテーブルの上に10センチ四方ぐらいのところにちょっとした汚染がおこっただけでも大騒ぎしたのにね。いってみるとすさまじい所にばら撒いた訳ですよ、とてつもない放射能をね。その罪深さね。それで一番感じたのは僕が習った放射線防護学は放射線を減らすという意味では役に立つけど、当時吉沢先生から習った放射線の影響は身体的影響と遺伝的影響と習ったけれども、実際強烈なのは、心理的影響と社会的影響と、最近いうのは、「もうあなたの被爆はこれぐらい低いです。京都の二割増し程度です」なんて言ったってだめなんですね。汚染された故郷に住み続けること自体に対する意欲を失っているので。生活意欲というのを決定的に傷つけてしまっているので、もう放射線防護学の科学的知識で被曝の実態はこれぐらいだから癌が発生する確率もこれぐらいだからそんなに心配する必要もありませんと説明しても、ダメですね。

 

角山: 現地でずっとそういうことをされててもやっぱりそこへ到達されてしまうんですか。

 

安斎: だからその人が持っている悩みにずっと向きあい続ける以外にはなくて、例えば本宮市のある奥さんが測って欲しいというので行った時、その人は水道の水は一切使わず買っている、洗濯の水までね。だから倉庫はパッケージだらけ。外遊びはさせない、地面には座らせない、布団は外には干さない、ないないづくしでやってますね。それで我々が測ってみると僕の家の周りとたいして違わないんですよ放射線のレベルは。それで雨樋から水が落ちてきた出口の所だけ少し汚染があるからそこをほじくって、そこにプランターを置いておけば大丈夫ですと言うんだけど、生活を改めようとはしない、なかなか。水は買い続ける。福島の水道の水なんて測ったってなにも今は出てこないんだけど、最初は、「草木にやる水ぐらいは水道の水を使ってください」とかずっと言って、洗濯に使って、最後はコーヒー入れたり料理するのにも使ってもらえばいいと思ったけど、説得できないですね。科学というもののある意味での無力さを、僕なんかでも感じることがありましたね。それはもう不安があったらいつでも連絡くださいといって向きあい続けるしかない。

 

角山: 私事で恐縮なのですが、富岡のある方のお家に学生を連れて行く活動を最近もしているんですけど、その方から今相談を受けていまして、「できることならふるさとの富岡に住みたい。だからちょくちょく帰ってきては家や敷地の手入れをしている。近所には事故後にどこへも逃げなかった町民もいるし、生活もちゃんとできる。」と、ところが「できたら孫を呼び寄せてこの自然いっぱいのところで遊ばせたいんだけど、娘は孫を連れてこない。来てくれない。」と言って。僕としてはその方の願いを叶えたいんですけど、難しいよなと思ってどうしたらよいのかずっと悩んでいて、今先生の話をきいたら絶望しか無いんですよ。その方には、しっかり測定して測定結果を伝えたりしています。でも心配されている娘さんのこととなると、もう心理学の世界というか、科学の問題ではないですよね。

 

安斎: 科学の問題じゃなくなっちゃうでしょ。それがね、ある意味で科学教育というか、放射線科学教育をないがしろにして進めてきたつけが回ってきていると思うんだけど。学校教育でもそんなこと一切やってこなかったからね。だからそういう危険な物との付き合い方、それはダイオキシンだって何だって怖いけれども放射線というとこの国の人たちは総じてとても怖がりますよね。それは広島長崎を引きずっているのかというと、広島長崎のことをそんな知っているわけでもない。それでネットで「放射線 危険」とか入れたら最後、危険な話がいっぱい出てくるし。この国は、最初のキーワード二つぐらいで自分でどんどんそういう認識にはまっていって、それがレオン・フェスティンガーという社会心理学者が認知的不協和理論というのを、半世紀ぐらい前の理論だけれども、ある認知、認識を持っている人に自分が持っている認知とは違う認知が提起されてそれがお互いに相容れないときに心の中に対立が生じる訳ね。例えば自分はタバコを吸うという自分の喫煙習慣についての認知を持っている人に、「喫煙は肺がんとか食道がんとか胃がんの元であるという認知」をもたらすと、それは穏やかでなくなるんでね。そういうときに行動の取り方は三つあると言いますでしょ。一つは自分の持っている認知を捨てる。つまり喫煙をやめる。もう一つは、「肺がんになるとか主張しているのは一部の科学者の意見だよな」というように不協和的認知をもたらした相手の認知を軽んじたり否定したりする。もう一つは、無関連の認知を持ち出して、「まあそうかもしれないけど交通事故で死ぬよりましだよ」というように、混ぜ返して受け入れちゃうというね。それでそれをみるとやっぱり放射線についてはやっぱり、放射線ていうのは一般的に危険な物だというイメージを持っていて、そこに「大丈夫だよ」と言う人もいるし色々いるんだけど、総じてどうも原発推進派と言われている人が「大丈夫らしい」とか言うのが伝わっているからね。今ね、3+5=8というのを、安斎育郎が言うか東京電力が言うかで信じられたり信じられなかったりするんですよね。それでみんなやっぱり推進派の言うことは一般的信じないような風潮があって、危険だと言った方が勝ちとは言わないけれども、信じ込まれやすい状況があるように思う。だから科学者会議だった人も含めて今度『幸せになるための福島差別論」という本を出しましたよね。僕はもともと書くつもりはなかったんだけど、エッセイを書いてくれと言われて、そしたら本の趣旨にあっているので本誌に組み込みますとかいって勝手にそうなっちゃったんだけど、あの本の主題もそういうのに近いですよね。まあ福島の甲状腺がんもふくめて、どう怖がるかということについて習熟していないからとてもやっかいですよね。

 

中尾: 難しいですね、なかなか。ICRPとか国際的な放射線防護に関わる機関についてはどのように見ておられますか?

 

安斎: 僕が学んでいた60年代は、放射線は浴びないにこした事はないという基本認識があって、As low as possibleって言っていたのが、70年代に僕が保険物理協議会の役員などをやっているあいだにICRPでもいろんな議論があって、As low as possibleがAs low as practicalになって「実際上可能な限り低く」とうことになって、で行き着いた先はAs low as readily achievableっていう「容易に達成できる限り低く」ってことになるんです。それはね、アメリカの産業界の意向を反映してそうなったんだけど、学会ではAs low as possible と言っておけばそれだけでいいんですよ。それは状況に応じてその条件のもとで一番低いのを目指せば良いのに、わざわざrecommendationをAs low as practicalからAs low as readily achievableまでこう変えていくんですよね。そういうのでIAEAっていう団体も世界のいわゆる平和利用を推進する国際機関としてできたけれどそれと連動して放射線防護分野のICRPというのもまあ一定の基準をつくってその範囲で原子力発電を推進するものだったけど、その基準そのものがどんどんアメリカの産業界などの意向によって甘くなっていくような雰囲気をずっと70年代を通じて感じていてね、だからICRPに僕は深入りしないようになったんですね、ある時期から。

 

中尾: アメリカの原子力業界の意向というのはどういうふうに感じることができるんですか?

 

安斎: あの頃は、アメリカでも有名なカール・Z・モーガンさんという人がいて、この人はAs low as possibleと言っていた時代にアメリカで放射線防護学を主導していた人なんですけども、だんだんアメリカの産業界と関わっている放射線防護学の専門家たちの意向を反映してICRP勧告の中に違う表現を持ち込もうとするんですよね。そのたびに変化をさっき言ったような変化を遂げていくICRPのあり方が、放射線防護学の僕なんかがやっている基本思想は「放射線は浴びないにこしたことはない」というだけで、それだけの話で、それ以上絶対深入りしないんです。われわれ五人の間でもそういうことには深入りしないで済んでいて、その状況に応じてこの場面で一番浴びないようにするにはどうしたらいいかということを実現すれば良いだけなので、放射線防護学が学であればその原則的な認識をそうやって言っていればいいんじゃないかとと思うんで。それはもちろん内部被曝とか大変ややこしい問題だから、ICRPが複雑怪奇ないろんなリコメンデーションを用意して学会で議論するには格好のおもしろい素材ではあるけれども、ぼくはあまり義理を感じなくなってしまった、ICRPには。

 

中尾: これは科学ではないという…

 

安斎: もちろん科学的体系とそれを実現をするための技術的な体系が深く関わっているけれども、それを貫いている思想が必ずしも学問的と言うよりも実業界のあり方を反映して性格を変えてきたというふうに見ているので。

 

角山: 先生、福島におられると多分現地の人たちから、例えば「ホットスポットこんなに高いんだけど、ほんとうに子どもたちが近寄っても大丈夫かしら」とか、いわゆる長期の低線量費被ばくに関する質問とかが多分あると思うんですけど、そういうときにまあ福島であれば一般の方もLNTの話はどこかから聞いているので、この人たちは低線量の世界を知らないんだとか分からないんだとかどういう理解かわかりませんが、とにかくなんかこう、浴びれば浴びるほど増えていくという、当然逆も限界がどこかわからないみたいな話になってって、その罠というか囚われることの原因の一つが、僕なんかはICRPが作ってしまっている面があるのではないかという、過度の規制で過度の恐怖を与えているというのもあるんじゃないかと思うんですけれど、その辺は先生はどう思われますか?

 

安斎: だから特に今言われたような、確率的影響と言われているものですね。僕は80年代の終わり頃に、チェルノブイリ原発の後ですね、「ガン当たりくじの話」という本を書いたんですね。放射線を浴びて確率的影響に見舞われるというのはガン当たりくじを買うようなもんだというので、とても分かりやすいんですが(笑)。宝くじと放射線のガン当たりくじの違いは何かというと、買えば買うほど当たりやすいというのは同じですよね。ちょうど東京電力ががん当たりくじをばら撒いたのでそれを買う、いっぱい買うというのはたくさん浴びる、そうすればがんに当たる確率が増えるってことは事実だけれども、やっかいなことに放射線のがん当たりくじは当選発表日が決まっていない。宝くじは当選発表日があって、外れていればくじを捨てることができるんだけど、放射線のガン当たりくじは生涯有効な当たりくじというふうに今の所考えられているわけね。で本人も忘れた頃に、あなた何年前にお買い上げになった放射線がん当たりくじで肺がんに当選しましたのでお送りしますと商品が送られてくるというようなたちのものだから、それは確率が問題なんだけれども。だけどみなさん、宝くじは当選確率が十分低いのに買うわけですよみんなね。だれか当たる以上私が当たってもおかしくないって思うからみんな買うわけで、放射線のガン当たりくじも、うんと当選確率は低いということを我々は説明するわけ。今わかっている範囲でも100mシーベルト浴びて一生かかってもガンの発生率が30%がたかだか0.5%増えるかどうかというレベルのもので、みなさんが実際に浴びている被曝からするととんでもなく当選率は低いんだけど、でも宝くじを買う以上誰かがガンになる可能性があるかもしれない以上、私がなる確率もあるというので恐れちゃうってね。ある面でそれはそういう確率に対して習熟してないんじゃないでしょうかね。日本人だけとも思わないけども、特に日本人は…

 

角山: 坂東先生がもういつもおっしゃってます。日本人は確率統計ができない、概念がないって。放射線はそれが分からないと測定もできないですよね。

 

安斎: いや実際だからあちこちに行って、ここに住んでいて大丈夫でしょうかとか聞かれるから、それは被曝の実態を踏まえて評価してみせて、「私なら住み続けます」というんですよね。「大丈夫ですよ」という言い方じゃなくて、「私なら気にかけずに、東京と京都だって1.4倍ぐらい自然放射線違うので、東京の人が金閣寺に行くときに放射線を浴びに行くと思う人はいない程度のことだから大丈夫ですよ」っていうし。福島の保育園で泥の田んぼで遊ばせたいっていうわけね、で測ってみるとセシウム137が1キログラムあたり200ベクレルとかね、入ってる。大丈夫でしょうかと言うんだけど、それは例えば大豆の中にはカリウム40というセシウム137と似たり寄ったりの核特性を持つ物がだいたい400~500ベクレルくらい入っている。だから天然の大豆を洗うのに抵抗がないのであれば泥で遊んだって別に気にするほどのことではありませんよって言って、そうしたらその後「みんなで泥遊びして楽しかった」という保育園からの連絡が来たりね。だから安全だっていう風に、なんでこんなことを恐れているのっていう言い方は一切しないで、放射線防護学を卑しくも学んだ者として、私ならどう考えるかということを言って。後は僕を信じてくれるかどうかという話なので、信じてもらえるように誠実に行動はしたいということしか思わないね。

 

角山: 誠実というのは、先生に頼られていた皆さんの立場に立つとかそういう誠実ですか? それとも自分の学問信条に対する誠実さですか?

 

安斎: 少なくとも、「隠すな、嘘つくな、過小評価するな」というのを自分にも課している。その上で信じてもらえるかどうかは、私ならこう考えるということを述べた後で、安斎のいうことなら耳を傾けてみようかと思われる程度に誠実に自分が普段行動しているかどうかね。それにかかっているような気がして。だからこれはこうやれば下がるんですとか言うのは、その辺にスコップとかツルハシとかがあれば実際にやって見せてます。雨樋の下に強烈な放射能があることがありますよ、1キログラムあたり200万ベクレルとかね。それでも瓦を一枚かぶせただけで被曝が激減するわけね。それは「瓦をかぶせればいいんですよ」って口で言うんじゃ無くて、裏に回ると結構福島の家っていろんなものが置いてあって煉瓦とか、それを被せて測ってみて「減りましたね」っていうふうに。だからそういう具体的で、その場に応じてこの放射線防護の原則をどう適応するのかという多少なりとも実践的な視点を忘れないというのがこの五人には共通しているんですけどね。

 

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