研究者・専門家へのインタビュー(安斎先生)
安斎育郎先生へのインタビュー 1/6
安斎育郎先生 プロフィール
専門: 放射線防護学、平和学立命館大学特命教授・名誉教授、立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長
1940年東京生まれ
序 原子力との出会い
安斎先生(以下「安斎」敬称略): 当時はまじめに勉強していたらしい。当時の大学ってひたすら先生が黒板に書いていたでしょ。62年から二年間、原子力工学科で学んでいたけど、あまり教科書っていうのが定かではなかったんですよ。先生が推選したものはいくつかあったと思いますが、決まったものは無かったと思いますね。だからひたすら先生が黒板に書いていたんですよね。
角山: それは新しい学問という意識があったということでしょうか。
安斎: そうですよね。先生方もアメリカに留学といってもどれぐらい行ってたかわからないけど、帰ってきて自分のノートをみながらで、家へ帰ってちゃんと切り抜いて貼ってメモなんかをしているからかなりまじめな学生だったんですよ。
中尾: れはどこかにしまわれていたんですか?それとも普段から身近なところにおかれているのですか?
安斎: えっとね、僕の本棚に何気なくずっと捨てずに置いてあったんですよ。だから当時はコピーを取るのも大変だった時代だけれども、これ先生が配ったやつを家に帰ってから整理して赤で何の資料かっていうのを書いてね。まあ試験の時の勉強かもしれないけれども。
角山: 勉強をしっかりされてるという感じがしますね。やっぱり楽しかったですか?
安斎: まあよく分からないこともいっぱいありました。先生もこんな式をいちいち黒板に書いたんだもんな。学生も写した上で理解して、試験があるから勉強しないといけないから、それはなかなか大変なことで。60年代というとまだ日本に原発がなかった頃で、1965年に原子力研究所になるんですよね。JPDRっていう日本動力試験炉ができた頃で、東大も原子炉なんか持ってないから、われわれが行ったのは武蔵工大で、そこで原子炉を持っていたんですね、確か60年代くらいかな。そこに実習に行ったぐらいで本物の原子炉なんて見たこともない原子力工学科の学生だったんですよ。あと東海村に原子燃料公社なんてのがあって、そういうところに実習に行ったりはしましたね。
中尾: やはり安斎先生がこの学科を選ばれたのは原子力への憧れですか?
安斎: うん。1960年に東大に入る前の年に、 国際見本市(1954年大阪で初開催。その後、東京と大阪で隔年開催されていた。)というのが東京であって、原子力平和利用博覧会の延長線でね。そこのアメリカのコーナーに原子炉が展示してあったんですよ。驚くことに東京都のあんなところに、本物の原子炉がね。それはねアメリカが近畿大学に残していった物なんですよね。0.1ワットっていうやつね。それを見たんですよ。国際見本市に見物に行って。昭和天皇も炉心を覗いたとかで当時新聞にも出たんですよ。
中尾: それは稼働しているんですか?
安斎: 稼働しているんです。本物の、だからチェレンコフ光が見える。それを私も見に行って、それで展示物もそれなりに放射線の最先端で、それで一年僕が浪人していた頃かな、1959年の5月7日頃に行ったのかな。それで例えば鶏にカルシウム45という放射性物質をまぜた餌を食わせると、卵の殻に何日後に出てくるのかとか、そういうアイソトープの実験とかを見てね、面白そうだと思ったんですよ。
思いを抱きっぱなしで東大に入ったんです。
中尾: 浪人される前の年は、そもそも原子力工学科がなかったんですね。
安斎: ぜんぜん原子力のゲの字も関心が無かったし、1954年にビキニ水爆被災事件があったけど、あの時だって「雨に濡れると禿げるぞ」って家で言われてたことはあったけれども、そんなことについて、広島長崎のことはもちろん知らないし、全く興味関心がなかったね。?
角山: 世の中が原子力平和利用で夢のエネルギーだというところからが先生の場合は放射線との付き合いになられたということですね。
安斎: そういうことですね。まあアメリカは1953年のアイゼンハワーの、例のアトムスフォーピースから翌年にビキニ事件が起こっちゃったので反核反米運動が持ち上がるのに対抗して、広島の平和記念資料館であれあったわけでしょ。全体で11回ほど原子力平和利用博覧会をやって、広島でもやったんですよね。そのころから世間では読売新聞の正力松太郎氏と中曽根さんのラインでいって、アメリカもソ連に先を越されて、1954年6月にソ連が実用型の原発5,000キロワットを作ったので慌てて潜水艦に乗せる予定だった原子炉を陸揚げして、シッピングポート原発(Shippingport Atomic Power Station)を作ってね。そのころからやにわにアメリカ中心の原発開発が始まって。
角山: 原子力潜水艦が先ですか。
安斎: 先ですよ。原子力潜水艦があったんだけど、アメリカの産業界も原子力の平和利用はあまり興味が無かったんでね。
中尾: 軍事利用ばかりやっていたので平和利用には少し遅れたっていうのでアイゼンハワーが・・・。
安斎: そうです。1953年の12月にアイゼンハワーが国連演説でアトムスフォーピースと言い出して、その頃からイギリスとソ連は先行して原発開発を進めていて、ソ連はモスクワ郊外のオブニンスクで5,000キロワットの原子炉を運転したのが1954年の6月28日かなんかですよね。それでイギリスの方がコールダーホール型原発で、日本が結局最初に正力松太郎のお声をかりて輸入したあれをやっていて、先行されて世界の原子力市場が独占される恐れがあるということでアメリカが焦って原子力潜水艦に乗せる予定だった原子炉を陸揚げして、シッピングポート型原発っていう加圧水型原発を作って、あれを結局運転始めるのは結局1957年ぐらいだったかな。だから安全は、一歩一歩都市に隣接して原子力発電所をつくってこういう事態が起こったらどうするかという検討ではなくて、潜水艦だから事故が起これば沈んでしまってそれっきりなんで非常に遅れて、同じ頃にWASH-740という熱出力50万キロの原発が大事故を起こして、中の炉心の放射能の半分が漏れたらどれぐらいの被害になるのかというのがアメリカでやられて、3,300人が死んで、37,000人だったかが障害を負う。それで被害額は100億ドルにのぼるというそんな話がでてきて、2億ドルだったかな、あの時の評価。それでこれは大変だと言うことで、都市部に隣接してそんなの作って事故を起こしたらどえらいことになるからプライスアンダーソン法という原子力損害賠償保障法を作ってね、それで事故が起こっても電力会社は100億ドル以上は負担しなくていいような仕掛けをつくって、それで日本は非常に占領政策が上手くいっていた国なので、エネルギーと食料を支配すれば一国を支配できるというアメリカの大戦略があってね、それで食料はすっかり支配されて、我々だから脱脂粉乳とかああいう頃からアメリカ食に手懐けられて、魚人種だったのがだんだん肉食獣に変わっていってね、鶏とか豚とか牛になっちゃえば餌は全部アメリカのトウモロコシとかだから、そういう方向ですっかりアメリカの食糧政策にはまって、それでエネルギー政策も1952年に日本がサンフランシスコ平和条約で帰ってくる前の年に戦後のエネルギー政策どうするんだという話がアメリカ側から問いかけられたけれども日本は決められなかったですよね。それであのとき電力会社は一社だけだったでしょ、日本発送電株式会社というね。それでどうするかすったもんだで決まらないときに、1951年に法律と同じ効果をもつマッカーサー政令で電力会社が9つに分解されて、北海道電力から東北電力で、分割されちゃうとこの辺は関西電力管内と、こう持ち分を決められると、それまでにやってた水力発電はそんなに資源が関西圏にないからね、戦後復興の過程で使う大電力をまかなうにはどうしたって電力消費に近いところに火力発電を作らざるを得なくなって、最初のうちは日本の石炭を使っていたけど、50年代の終わりになって三井三池炭鉱事件でお取りつぶしになっていて、もう千を越える炭鉱が水浸しで再開発もできないような形になっていて、石油火力に転換されていってその延長線上でアメリカ型の原発の輸入路線、こっちからいうと輸出路線が始まって。驚くべきことに、これは大学院ぐらいになってそのことを勉強して驚いたんだけど、1954年3月1日にビキニ事件が起こって、日本に報道されたのが、読売新聞で3月16日頃ですよね。その間に日本人は誰も知らなかったんだけど、3月3日に中曽根さんと正力さんで原子炉築造予算というのを出していたんですよね。2億3千5百万て、ウラン235からとったやつね(笑)。だから反米反核の嵐が巻き起こる前に、そういったレールを敷いちゃって、当時のアメリカの議会で民主党なんかでは「広島に原発を作るべきだ」というアイデアもあって、つまり軍事利用の大きな被害を受けた広島に平和利用の原発を作るという構想まであって、それで次々に平和利用博覧会をやって行った、その延長線上にぼくも乗せられたと。わりにすんなり受け入れて東大に入って、60年に原子力工学科ができたけど、学生の募集は62年、僕が最初だった。だから61年の秋に教養学部から専門に行くときに、どこにいくのか決めるんですが、その時に初めて原子力工学科が15人の学生を募集するというアナウンスがあって、結構成績によって振り分けられるので、人気で誰でも行けたわけではなかったですね。で私は当選してしまったんですね(笑)。
中尾: 先ほど、大学院生の時にそういった1954年にいろいろ重なっていたことに気づいたとおっしゃってたんですが、入った頃は夢にあふれて原子力をやろうという感じで。
安斎: そうですよ。この国のエネルギーの最先端を担う技術者になろうと希望をもって行ったんだけど、勉強してみると放射線てやっかいですよ、ネズミを殺す実験もやらされたけれども、コバルト60という放射性物質でいろいろ照射する装置が原子力工学科にあって、ネズミに一定時間致死量の放射線浴びせると死ぬんだけど、それをずっと観察して何分後に右足を挙げて痙攣したとかそういう学生実験で。それで解剖もさせられてね、工学部の学生だけれども。
角山: 基本エンジニアになるための勉強の中で、そういったことを勉強させられる機会があったわけですか?
安斎: そうです。原子力工学科の中に九つのプロパーの講座があって、工学部から電気工学科とか物理工学科とかを寄せ集めて、先生方をそれぞれおいた上で、協力講座というのが三つあって、理学部、農学部、医学部。で理学部は原子核物理学かな、農学部は最初放射線育種学といった気がするんだけどその後放射線遺伝学という名前になって、それで医学部から放射線健康管理学というのが協力講座、だから講義に組み込まれていたんです。さらにどの専門を選ぶのかというときに、授業で勉強した放射線防護学でそういう学生実習で、なかなか容易ならざる学科にきたということを否応なく自覚するわけですね。だから原子炉を作るほうよりもやっぱり、放射線を浴びたら何が起こるのかということを知った方がいいだろうと僕が思ったんですよね。だから放射線防護学を専門にしようと思って、だから修士課程は原発の燃料をつくる工場で、ウランを取り扱う労働者がウランを体内に取り入れたときにそれをどうやって検出したらいいか。ウランというのはα線しか出さないから体の外からではわからなくて、やっぱり体内汚染の管理をしなければならないので、尿に出てくるウランを測定する仕事が修士論文でしたね。フッ化ナトリウムという錠剤をつくってそれに尿を垂らして焼くんです、電気炉で。1,000度ちょっとでね。そこに紫外線をあてると、ウランがフッ化ナトリウムの構造のなかに取り込まれて紫外線を吸収して独特の波長の蛍光を出すので、それで測定するのが一番効率が良いというんで、それが修士論文ですね。博士論文は外部被曝と内部被曝を理論的に、どう測定技術を改良しても解消しようのない不確定性が残るんですけれども、それを理論的に評価する仕事かなんかを。