放射線生体影響に関する物理学、疫学、生物学の認識文化の比較分析

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研究の概要:背景と経緯

ホームページ開設にあたって坂東 昌子

 2011年3月11日、東日本大震災、続く津波、そして原発事故が起こった。関東方面は事故現場に近く、事故による放射性物質が周辺に広がったこともあり、科学者も含めて事故後大学や研究所での被害も出て混乱が続いていた。その混乱のなかでも、放射線被ばくの生体への影響については、当初から、世論が極端な2つの評価に分かれて、その間のコミュニケーションが不足という状態が続き、今もなお、例えば健康調査をめぐって、その評価や行政政策のありかたについて意見が極端に分かれている。こうした問題について、これまで世論の形成と科学者のコミュニケーションの問題が焦点であった。

 しかし、果たしてこれだけであろうか?例えば放射線に関係のない、地震の後の状況とについても、同じような世論の温乱がおきているであろうか?様々な科学的な情報をに対して、確かに科学者の中で多少の意見の相違はあるにせよ、そんなに極端に混乱を巻き起こすほどの世論の相違はないように思われる。放射線の生体影響に対して、これだけ極端に意見の相違があるのはなぜか。

 

 私たち物理学者は、その違いがどこからきているのか、そして本当にどこまで科学として明確にわかっているのか、それが問題だと思った。幸い、周りに生物学や防護額の研究者をはじめとして集っている「NPOあいんしゅたいん」という幅広いネットワークを持つ私たちは、おそらくどこよりも異分野交流が可能なところである。そして、実際、3・11直後から生物学、放射線防護の方々と、毎日のように議論をした仲間がいる。そして、すぐに、物理学を専攻しているものの常として、定量的な議論を進めようと思い立ち、研究を始めた。そして数量を問題にすることの重要さを痛感したのである。この分野に入ってみると、この課題に関係する学会は、国内だけでも10を超えており、物理学会のように幅広い分野をカバーして交流できる場というものが意外と少ないことに気が付いた。そして、生物学や医学との科学的アプローチが、認識の違いを痛感するようになった。科学者の間でこれだけ意見の相違があり、異なった評価をする科学者間の交流がいかに少ないかも目の当たりにした。学会の在り方や、そこでの議論の仕方にも、様々な価値観の違いをみるにつけ、世論が2つに割れているのは、科学者のこうした異分野間の交流のなさや、徹底的に異なった評価を突き合わせる習慣のなさが、大きな要因ではないかと考えるようになった。

 そこで、放射線被ばく問題に関与する複数の科学分野間の関係に注目して、物理学、分子生物学、疫学・医学の各分野の「認識文化」の比較検討を行って、異分野交流の在り方を追及する研究が必要だと感じるに至った。幸い、NPOで行っているサロン・ド・科学の探索で、科学史研究者の中尾と樋口と出会い、福島原発事故以後の放射線被ばく問題の混迷の原因について議論を重ねる中で、上記の国内外の研究動向を批判的に検討し、自然科学者と人文学者が協同し、放射線被ばく問題に関与する物理学、分子生物学、疫学の各分野の特性と分野間関係を人文・社会学的な手法で多角的に解明するという着想を得た。自然科学者と科学史研究者が協同し、この問題を解明しようと意気投合したのである。問題の焦点は、様々な分野での科学的方法論の違いや価値観について内容にかかわって掘り下げること、そして、なぜ、異分野交流が困難なのか、である。

 すでに、放射線被ばく問題が純粋科学の問題とは異なる特徴を有することは、物理学者のワインバーグAlvin Weinbergが、1972年に指摘している。彼は、「トランス・サイエンス」という概念を提唱し、「科学に問うことはできるが、科学によって答えることの出来ない問題群」の例として低線量被ばく問題を挙げた。続いてフントウィッツSilvio O. Funtowiczとラヴェッツ Jerome R. Ravetzは1990年に「ポスト通常科学」という概念を提唱した。入れらはともに、科学的不確実性が高いだけでなく社会的利害の対立も高いことを指摘し、こうして問題に対しては、科学者共同体だけでは不十分であり、市民や利害関係者を包括した「拡張された共同体」が必要であると述べた。これらは、科学と社会の関係に焦点を当てたものである。実際、社会的利害関係の分と科学的事実とを、どう切り分けるかは、当問題にとって深刻な問題である。3・11の福島第一原子力発電所の事故を契機として、放射線被ばくの生体影響に関する見解の乖離を「原発推進」と「反・脱原発」という利害対立で捉える見方が広がったことは記憶に新しい。

 しかし、逆に、この点ばかりが浮き彫りになると、科学社会の歪みだけが目につき、科学者間の政治的な対立が、かえって科学的真実から遠ざけることにもなりかねない。放射線被ばく問題だけでなく、環境問題、健康問題、人工知能の問題などのように、それに関与する多数の分野が共同して解明することが要求されている課題は、今後ますます広がってくるだろう。果たして、複数の科学分野間での、真の共同作業は可能なのか、それを阻害している要因は何なのか、それがいま問われているのである。

 私たち物理学分野のものは、新たに参画して新分野で、生物学者との共同作業で、放射線の影響の定量的評価のための新たな数理モデルの構築にとりくんできた。その過程の中で、物理学、分子生物学、疫学の各分野の研究者間の交流が驚く程少なく、分野間の障壁が非常に高いことを体験的に実感してきた。さらに、科学史研究者の中尾と樋口と出会い、福島原発事故以後の放射線被ばく問題の混迷の原因について議論を重ねる中で、上記の国内外の研究動向を批判的に検討し、自然科学者と人文学者が協同し、放射線被ばく問題に関与する物理学、分子生物学、疫学の各分野の特性と分野間関係を人文・社会学的な手法で多角的に解明するという着想を得た。さらに、アンケートなどのデータ分析にも関連して小波、尾上(情報学)が加わり分析技法とともに、情報系という分野横断の経験の深い分野へと広がりを持つに至った。

 本研究ではこの見方をさらに一歩進めて、放射線の生体影響という共通の課題を媒介として関係三分野の「認識文化」を統合的に分析することで各分野間の対照性と共通性を明らかにする。自然科学者(物理:坂東、和田、真鍋、分子生物学:中島、角山、疫学:田中)による各分野の研究過程の分析に加え、申請者(坂東)が過去に女性研究者とポスドク問題に関して行った実績があるアンケートによる社会調査、そして中尾と樋口がそれぞれ取り組んできた日本における放射線の生体影響の研究(広島・長崎の被爆者調査)とその社会的応用(放射線防護基準の策定)の歴史研究を連動して行うことで、従来の実験室研究では未解明であった各分野のマクロな構造と時代的変化を同時に明らかにしたい。

 本研究の学術的な特色の第一は、日本における物理学、分子生物学、疫学の各分野の「認識文化」を放射線の生体影響という同一の課題を媒介として比較分析することである。これにより、各分野間の対照性と共通性が一層明確化され、同じ課題に取り組みながら全く異なる見解が生じるメカニズムを解明することができる。

 特色の第二は、従来の実験室研究で主流であった参与観察に加え、社会調査と歴史研究を方法論として採用することで、実験室のスケールを超えた各分野全体の構造と分野間関係の変化も同時に明らかにする ことである。この方法論の組み合わせにより、ミクロな観察をマクロな構造とその変化の中に位置づけることが可能となる。

 第三は、放射線の生体影響の研究に実際にとりくんでいる自然科学者が人文・社会科学者と分野の枠を超えて協同する分野横断型の研究体制である。先に述べたように、放射線被ばく問題は本質的に科学と社会、そして専門分野間を横断する性格を有しており、この問題の本質の解明には文理・分野を横断する研究協力が不可欠である。

最後に、本研究は上記の学術的意義と共に、社会的意義も大きい。福島原発事故後、放射線被ばくをめぐって様々な科学者が異なる見解を発信し、市民のみならず科学者の間でも混乱を起こした。意見の対立が先鋭化した重要な要因の1つは、日本における異なる分野の科学者間の相互理解と対話の不足にあると考えられる。本研究は放射線被ばく問題の混迷の原因を科学者共同体の内部に探る試みである。 その成果は、申請者が副委員長を務める日本学術振興会先導的研究開発委員会「放射線の影響とクライシスコミュニケーション」と、本年10月に和田を委員長とする同会研究開発専門委員会「放射線の生体影響の分野横断的研究」で議論されている放射線被ばく問題に関する合意形成に向けた新たな分野間コミュニケーションと真の学際研究のあり方を構想する基盤となることを期待している。


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